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丸椅子

どれも、ありふれた物だった

丸椅子

朗読で聴く

第一章 一周忌

七十四になった。

古い団地の、四階の部屋に住んでいる。

夫は、去年の春、七十八で死んだ。

四十年、町の路線バスを運転した人だった。

無口な人だった。

わたしたちは、見合いで結婚した。

夫は三十、わたしは二十六だった。

初めて会った日も、夫は、ほとんど話さなかった。

でも、帰りに、駅の階段で、わたしの荷物を、だまって持ってくれた。

朝、五時に起きて、ごはんを食べて、出ていく。

夜、帰ってきて、ふろに入って、寝る。

それを、四十年。

六十五で会社を辞めてからも、夫は、五時に起きた。

そして、団地のまわりを、一周歩いて帰ってきた。

雨の日も、雪の日も。

どうして、と聞いたことがある。

目がさめるから、とだけ、夫は言った。

休みの日は、テレビの前で、横になっていた。

趣味は、無かった。

釣りも、ゴルフも、しなかった。

お酒も、ほとんど飲まなかった。

この春、一周忌をした。

娘のけいこが、孫のゆうたを連れて、来てくれた。

けいこは四十六で、となりの市に住んでいる。

ゆうたは、八つになった。

お坊さんが帰ったあと、三人で、夫の物を片づけることにした。

一年、手をつけられなかった。

押し入れも、たんすも、げた箱も、夫が出ていった朝のままだった。

第二章 何も無い人

片づけは、すぐに終わった。

夫の物は、ほとんど無かったのだ。

制服は、会社に返していた。

残っていたのは、ふだん着が少しと、黒い革靴が一足。

古いアルミの水筒が一つ。

目覚まし時計が一つ。

それから、台所の、丸椅子が一つ。

それで、全部だった。

けいこが、ため息をついた。

お父さんの物、本当に、何も無いね。

写真も、ほとんど無かった。

家族の写真は、いつも夫がとる側だった。

四十年分のアルバムに、夫が写っているのは、十枚もなかった。

けいこの結婚式でも、夫は、あいさつを、ひとことしか言わなかった。

よろしくお願いします。それだけだった。

親せきの人たちは、少し笑った。

わたしも、少しはずかしかった。

手紙も、日記も、無かった。

好きだった物も、わからなかった。

けいこは、少し泣きそうな顔で、言った。

お父さんって、どんな人だったんだろう。

わたしは、答えられなかった。

四十八年、いっしょに暮らしたのに。

あの人は、何も残さなかった。

ずっと、そう思っていた。

特別なことを、何もしない人だった。

特別な物を、何も持たない人だった。

第三章 台所の椅子

台所の丸椅子は、結婚した年に、二人で買った物だ。

商店街の金物屋で、いちばん安かった。

木の座面に、黒い鉄の足が四本。

どこにでもある、ありふれた椅子だった。

夫が座る朝の五分のほかは、わたしの物置きになった。

買い物袋をのせたり、なべを置いたり。

何度か、新しい椅子に替えようと言った。

夫は、まだ使える、とだけ言った。

夫は、毎朝、その椅子に座って、靴をはいた。

玄関がせまいので、台所で靴をはいて、そのまま出ていくのだ。

四十八年、毎朝、同じ椅子で。

五時十分になると、台所で、椅子が、ぎい、と鳴った。

夫が座る音だ。

それから、靴ひもを結ぶ、小さな音。

そして、もう一度、ぎい。

夫が、両手で座面をおして、立ち上がる音だ。

わたしは、いつも、ふとんの中で、その音を聞いていた。

起きて見送ったことは、ほとんど無い。

ぎい、と二度鳴ると、玄関のドアがしまる。

それが、毎朝のことだった。

夫が死んでから、その椅子には、だれも座っていなかった。

けいこが、椅子を持ち上げて、言った。

これも、もう、いらないよね。

古いし、ぐらぐらしてるし。

第四章 ゆうたの朝

そのとき、ゆうたが、言った。

だめ。それ、おじいちゃんの椅子。

ゆうたは、けいこの手から椅子を取って、台所のすみに置いた。

そして、その上に座った。

自分の運動靴を、ひざにのせて、ひもを結ぶまねをした。

小さな手で、座面の両はしを、ぎゅっとおした。

立ち上がると、椅子が、ぎい、と鳴った。

ゆうたは、夏休みや冬休みに、よく、うちに泊まりに来た。

朝の早い子で、夫が起きると、いっしょに起きていた。

わたしは、知らなかった。

ゆうたは、毎朝、台所の床に座って、夫が靴をはくのを、見ていたのだ。

おじいちゃんね、靴ひもを、二回、むすぶんだよ。

一回だと、ほどけるから、って。

それでね、いってくる、って、小さい声で言うの。

おばあちゃんが起きないように、小さい声で。

それから、外に出る前に、台所の窓の外を見るの。

今日はいい天気だ、とか、今日は雨だ、とか、ひとりで言うの。

ぼく、それを聞いてから、また寝るんだよ。

わたしは、何も言えなかった。

四十年、その声を、一度も聞いたことがなかった。

けいこが、椅子の座面を、じっと見ていた。

座面の両はしに、木の色が白っぽく変わったところが、二つあった。

丸く、すり減っていた。

夫の手の形だった。

第五章 ありふれた物

けいこが、ぽつりと言った。

わたし、子どものころ、毎朝、この音で目がさめてた。

ぎい、って鳴ると、お父さんが行くんだなって。

それで、もう少し寝てていいんだって、安心した。

お父さんがいない朝は、日曜日だった。

けいこは、座面の白いところに、手をのせた。

どれも、ありふれた物だった。

安い椅子。黒い靴。アルミの水筒。目覚まし時計。

どこにでもある物ばかりだった。

でも、その一つずつに、夫の四十八年が、ちゃんと残っていた。

靴のかかとは、右だけ少し多くすり減っていた。

運転席で、右足でブレーキをふむからだ。

水筒には、へこみが三つあった。

どれも、バスの運転席の、同じ場所に当たったへこみだった。

目覚まし時計は、四時五十五分に合わせたままだった。

夫は、何も残さなかったのではなかった。

特別な物を持たなかっただけだ。

ありふれた物を、毎日、同じように使っただけだ。

四十八年、わたしは、あの人の特別なところを、さがしていた。

でも、あの人は、毎日の中にいた。

そのありふれた物が、夫の形そのものになっていた。

写真よりも、手紙よりも、はっきりと。

毎朝、椅子が鳴った。

それが、あの人だった。

エピローグ

椅子は、けいこが持って帰らなかった。

台所の、もとの場所に置いた。

次の朝、わたしは、五時に起きてみた。

台所の丸椅子に座って、自分の靴をはいた。

ひもを、二回、結んだ。

両手で座面をおして、立ち上がった。

ぎい、と椅子が鳴った。

わたしの手は、夫の手より、ずっと小さい。

すり減ったところに、すっぽり入った。

いってくるね、と、小さい声で言ってみた。

それから、外に出て、団地のまわりを、ゆっくり一周歩いた。

朝の空気は、少し冷たかった。

バス通りを、始発のバスが、走っていった。

運転席に、知らない若い人が座っていた。

わたしは、そのバスが見えなくなるまで、立って見ていた。

部屋にもどると、台所の椅子は、いつもの場所にあった。

その夜、けいこから、電話があった。

ゆうたが、また泊まりに行きたいって。

おじいちゃんの椅子で、靴をはきたいんだって。

わたしは、いいよ、と言った。

五時に起こしてあげるからね、と。

ソウルミッション358

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