港の灯
はじめは、全部黒かった

朗読で聴く
第一章 夜の窓
六十四になった。
アイルランドの西の、小さな港町に住んでいる。
石造りの家が、港を囲むように、並んでいる。
わたしは、三十五年、港の事務所で、夜の番をしてきた。
夜の八時から、朝の六時まで。
沖に出た漁船と、無線で話す。
港に入ってくる船を、一隻ずつ、帳面に書きとめる。
防波堤の先の灯が消えていないか、確かめる。
事務所の窓からは、真っ暗な海しか、見えない。
その暗い海の上に、ときどき、船の明かりが、白い点になって、現れる。
来月、わたしは、この仕事をやめる。
事務所は、防波堤のつけ根にある、小さな石の小屋だ。
中には、古い机と、無線の機械と、ストーブが一つ。
壁には、潮の時刻を書く黒板が、かかっている。
冬の夜は、ストーブの火を見ながら、紅茶を何杯も飲む。
風の強い夜は、窓ガラスが、一晩じゅう、がたがたと鳴る。
三十五年、ほとんど、ここで夜を明かしてきた。
第二章 黒い夜
夫のショーンは、漁師だった。
三十五年前の冬、わたしが二十九のとき、夫の船は、夜の海から戻らなかった。
嵐の夜だった。
港の明かりは、ついていた。
でも、その夜、事務所に無線の番をする人は、いなかった。
町の人たちは、言った。
だれかが無線を聞いていれば、ショーンの声を、拾えたかもしれない。
拾えなかったかもしれない。
だれにも、わからないことだった。
夫の体は、見つからなかった。
わたしは、葬式の日も、海を見ていた。
灰色の空と、黒い海。
あの海のどこかに、夫がいるのだと思った。
夫の船が、どこで、どうなったのか、だれにもわからなかった。
わたしには、三人の子どもが残った。
五つのシネード、三つのリアム、まだ一つのキアラ。
お金は、ほとんど無かった。
その冬から、わたしの一生は、真っ黒になった。
何も見えない、夜の海のように。
港の事務所が、夜の番をする人をさがしていると聞いたのは、春だった。
わたしは、それに、手を挙げた。
まわりの人は、止めた。
女一人で、夜の港なんて。子どもたちは、どうするの。
でも、わたしは、どうしても、その椅子に座りたかった。
だれかが、夜の海に向かって、耳をすましていなければならない。
夫の船が帰らなかった夜、その椅子は、空いていた。
二度と、空けてはいけないと思った。
最初の夜、無線の使い方も、ほとんどわからなかった。
年とった漁師が、一晩じゅう、無線で教えてくれた。
第三章 三十五年
夜は、港で無線の前に座った。
朝、家に帰ると、子どもたちを起こして、学校へ送り出した。
昼に少し眠って、夕方、晩ごはんを作った。
そして、また、港へ行った。
子どもたちの学芸会にも、運動会にも、ほとんど行けなかった。
いつも、眠かった。
いつも、疲れた顔をしていた。
朝、子どもたちの髪を結びながら、うとうとしたこともある。
キアラの誕生日のケーキを、焼きながら、台所の椅子で眠ってしまったこともある。
起きると、シネードが、オーブンの火を止めてくれていた。
シネードは、十五のとき、わたしに言った。
お母さんは、いつも夜の人だね。
わたしは、言い返せなかった。
わたしの三十五年は、夜だった。
真っ黒な海と、真っ黒な空の間で、無線の声を聞いていただけ。
子どもたちに、明るい昼を、あげられなかった。
子どもたちは、大きくなった。
シネードは、救命艇の乗組員になった。
リアムは、町を出て、ダブリンで働いている。
キアラは、となりの町で、看護師をしている。
三人とも、ちゃんと育った。
でも、それは、わたしのおかげではないと思っていた。
夜にいない母親から、何をもらえたというのだろう。
夫を失った夜から、わたしは、ずっと、あの黒の中にいる。
そう思ってきた。
第四章 最後の夜
最後の夜も、いつもと同じだった。
八時に事務所に入り、無線のスイッチを入れた。
沖には、六隻の船が出ていた。
一隻ずつ、名前を呼んで、位置を聞いた。
風は弱く、波もおだやかだった。
三十五年の最後にしては、静かすぎるくらいの夜だった。
夜中の二時、ストーブに石炭を足して、紅茶をいれた。
窓の外は、いつものように、真っ暗だった。
この暗さを見るのも、今夜で最後だと思った。
ふしぎと、さびしくはなかった。少し、ほっとしていた。
朝の四時ごろから、船が、一隻ずつ、帰ってきた。
暗い海の上に、白い明かりが、一つ、また一つ、現れた。
そのとき、無線から、聞きなれた声がした。
お母さん、聞こえる。
シネードだった。
シネードは、今、四十になる。
港の救命艇の、乗組員をしている。
お母さん、窓の外、見て。
わたしは、窓の外を見た。
第五章 白い線
港の入り口に、船が、並んでいた。
六隻の漁船と、救命艇。
どの船も、甲板の明かりを、全部つけていた。
真っ暗な海の上に、白い光が、まっすぐに、並んでいた。
水の上に、その光が、白い線のように、長く、のびていた。
無線から、漁師たちの声が、次々に聞こえた。
ありがとう、モリーン。
三十五年、帰り道を、ありがとう。
シネードが、言った。
お母さん、わたしたち、知ってたよ。
夜、目がさめて窓を見ると、港の事務所に、いつも明かりがついてた。
あれが、お母さんだって、知ってた。
だから、夜はこわくなかったの。
お父さんがいなくなってから、わたし、夜の海がこわかった。
でも、港の明かりがついてると、お母さんが、海を見ててくれるって思えたの。
わたしが救命艇に乗ったのも、そのせい。
お母さんの明かりの、向こう側に行きたかったの。
わたしは、無線の前で、声が出なかった。
はじめは、全部、黒かった。
夫を失った夜から、わたしの一生は、真っ黒だと思っていた。
でも、その黒の中で、わたしは、毎晩、船の帰り道を、一本ずつ、引いていた。
黒が無ければ、白い線は、見えなかった。
子どもたちは、その線を、窓から、見ていたのだ。
三十五年で、この港に帰ってきた船は、何千隻になるだろう。
その一隻ずつに、わたしは、帰り道の明かりを、一本ずつ、彫り出してきた。
黒い海から、白い線を、一本ずつ。
夫の船の夜に、無かった線を。
エピローグ
朝の六時、わたしは、最後の帳面を閉じた。
六隻、全部、帰った、と書いた。
事務所の電気を消して、外に出た。
空が、東の山のほうから、少しずつ白くなっていた。
防波堤の上で、シネードと、リアムと、キアラが、待っていた。
キアラの小さな娘が、わたしの手をにぎった。
おばあちゃん、夜のお仕事、おしまいなの。
うん、とわたしは言った。
今夜からは、窓から、港の明かりを見るよ。
その夜、わたしは、三十五年ぶりに、家で夜を過ごした。
台所の窓から、港の事務所が見えた。
新しい番の若い人が、もう、明かりをつけていた。
真っ暗な海のふちに、小さな白い光が、一つ。
子どもたちは、毎晩、これを見ていたのだ。
わたしは、窓の前に座って、紅茶を一杯いれた。
そして、その光が朝まで消えないのを、ずっと見ていた。
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