拓本
はじめは、全部黒かった

朗読で聴く
第一章 まっ黒な紙
四十一になった。
県の博物館で、古い石碑の拓本をとる仕事をしている。
石に紙をあてて、水でぴったりと貼りつける。
かわきかけたところで、たんぽに墨をつけて、紙の上を、軽くたたいていく。
紙は、だんだん、黒くなる。
石の平らなところは、全部、黒くなる。
ただ、彫られたところだけは、墨がとどかずに、白く残る。
最後には、真っ黒な紙の上に、白い字だけが、浮かび上がる。
はじめは、何も読めない、古い石だ。
でも、全部を黒くすると、彫られた字が、見えてくる。
この仕事を、十五年、続けてきた。
独身で、博物館の近くのアパートに、一人で住んでいる。
仕事で、山の中の古い石碑を、いくつも訪ねた。
苔におおわれて、肉眼では、ほとんど何も読めない石もある。
それでも、拓本をとると、何百年も前に彫られた字が、くっきりと出てくる。
彫った人の名前も、彫った日も、わからない字。
でも、彫られた線は、ちゃんと、そこに残っている。
わたしは、その瞬間が好きだった。
第二章 石屋の娘
父は、山あいの町で、石屋をやっていた。
墓石や、道しるべや、神社の石の灯ろうに、字を彫る仕事だ。
父は、酒を飲んだ。
仕事のあと、毎晩、一升びんを抱えるように飲んだ。
飲むと、大きな声を出した。
わたしが八つのとき、母は、家を出ていった。
置き手紙も、無かった。
それから十年、わたしは、父と二人で暮らした。
家は、いつも暗かった。
夜、布団に入ると、仕事場から、のみの音が聞こえた。
こつ、こつ、こつ。
父が、夜おそくまで、何かを彫っている音だった。
わたしは、その音が、きらいだった。
酒のにおいと、石の粉と、のみの音。
それが、わたしの家の夜だった。
電気代が払えなくて、止められた冬もあった。
父は、わたしに、ほとんど話しかけなかった。
わたしも、話しかけなかった。
十八で、わたしは、家を出た。
大学の寮に入り、それきり、家には帰らなかった。
わたしの子どものころは、全部、黒かった。
思い出しても、何も見えない、黒い時間。
そう思って、二十三年、ふり返らずに生きてきた。
第三章 石屋の庭
去年の冬、町の役場から、電話があった。
父が、死んだという。七十四だった。
一人で、仕事場で倒れていたらしい。
葬式は、役場の人と、近所の人が、小さく出してくれた。
わたしは、その葬式にだけ、二十三年ぶりに帰った。
祭壇の写真の父は、わたしの知っている父より、ずっと小さく、やせていた。
焼香に来た人は、十人ほどだった。
みんな、父の彫った墓石の家の人だった。
あの人の字は、まっすぐで、読みやすかった、と、何人かが言った。
わたしは、父の字を、ちゃんと見たことが無かった。
春になって、家と仕事場を片づけるために、もう一度、町へ行った。
仕事場は、石の粉で、白っぽかった。
彫りかけの墓石が、いくつか、立てかけてあった。
仕事台の下に、平たい石が一枚、裏返しに置いてあった。
ひざくらいの大きさの、四角い石だった。
おもては、つるりと平らだった。何も彫られていないように見えた。
でも、裏返すと、細かい傷のようなものが、一面に、あった。
浅すぎて、何が彫ってあるのか、わからなかった。
指でなぞると、かすかに、でこぼこがあった。
でも、明かりにかざしても、石の色と同じで、何も見えなかった。
ふつうなら、ただの練習用の石だと思って、捨ててしまうところだった。
わたしは、なぜか、それを捨てられなかった。
石の碑を、十五年、見てきた目が、何かがある、と言っていた。
第四章 たんぽ
わたしは、車から、仕事の道具を出した。
紙と、はけと、墨と、たんぽ。
石のおもてに、紙をあてて、水で貼りつけた。
しばらく待って、紙がかわきかけたところで、たんぽに墨をつけた。
とん、とん、とん、と、たたいていく。
紙が、少しずつ、黒くなっていく。
石の平らなところが、全部、黒くなっていく。
その黒の中から、白いものが、浮かび上がってきた。
小さな字だった。
ひらがなで、三文字。
さおり。
わたしの名前だった。
一つではなかった。
紙いっぱいに、何十、何百と、小さな「さおり」が、並んでいた。
大きさも、くせも、少しずつちがう。
一つずつ、別の日に、彫ったのだと、わかった。
わたしは、たんぽを持ったまま、動けなかった。
いちばん古そうな字は、線がかたくて、ぎこちなかった。
石屋なのに、ひらがなを彫るのに、慣れていなかったのだろう。
あとのほうの字ほど、線がやわらかく、まっすぐになっていた。
いちばん新しそうな字は、少しふるえていた。
年をとった手で、彫ったのだと思った。
第五章 白い字
近所の、石屋の仲間だった田村さんが、のぞきに来た。
八十近い、やせた人だ。
田村さんは、まっ黒な紙を見て、ああ、と言った。
あの石か。
あんたが出ていってから、あいつは、毎晩、それを彫ってたよ。
仕事が終わると、酒を飲む前に、一つだけ。
字の練習だって、言ってた。
石屋が、名前の練習なんかするかって、笑ったんだけどな。
あいつは、手紙が書けなかったんだよ。
話すのも、へただった。
あんたに何か言うかわりに、毎晩、一つずつ彫ってたんだろう。
一度、聞いたことがあるんだ。なんで、そんなに浅く彫るんだって。
あいつは、深く彫ったら、あの子に見つかるだろう、って言ったよ。
見つけてほしくないのかって聞いたら、黙って、酒を飲んでた。
わたしは、まっ黒な紙を見ていた。
わたしの子どものころは、全部、黒かったと思っていた。
何も見えない、暗い家だったと思っていた。
でも、全部を黒くして、初めて、白い字が見えた。
父は、わたしが出ていったあとの黒い家の中で、毎晩、一本ずつ、わたしの名前を彫り出していたのだ。
二十三年、毎晩、一つずつ。
はじめは、全部、黒かった。
その黒が無ければ、白い字は、見えなかった。
エピローグ
わたしは、その拓本を、博物館に持って帰った。
仕事の道具で、裏打ちをして、しわを伸ばした。
部屋の壁に、貼った。
真っ黒な紙の上に、白い「さおり」が、何百も並んでいる。
夜、電気を消すと、部屋が暗くなる。
窓からの街灯の明かりで、白い字だけが、うっすらと浮かんで見える。
わたしは、その前に座って、小さな声で、一つずつ、読んだ。
さおり。さおり。さおり。
父の声では、一度も、聞いたことのない呼び方だった。
子どものころ、父は、わたしを、おい、とか、おまえ、としか呼ばなかった。
名前を呼ばれた覚えは、一度も無い。
でも、父は、二十三年、毎晩、その名前を、石に彫っていた。
声に出せなかったぶんを、一本ずつ、線にして。
次の日、わたしは、博物館の仕事で、山の古い碑に向かった。
苔むした石に紙を貼り、墨をたたいた。
真っ黒な紙の上に、知らない人の、白い字が浮かんできた。
この字にも、だれかが、声に出せなかったことが、彫ってあるのかもしれない。
わたしは、いつもより、ていねいに、たんぽを動かした。
あなたの魂のテーマに気づく場所