黒板の字
はじめは、全部黒かった

朗読で聴く
第一章 八十の春
八十になった。
古い港町の、坂の上の小さなアパートに、一人で住んでいる。
夫は、九年前に死んだ。
子どもは、いない。
この春、わたしは、夜間中学を卒業する。
七十二で入って、八年かかった。
夜間中学は、町の中学校の教室を、夜だけ借りている。
昼の生徒が帰ったあと、六時半から九時まで、授業がある。
同じ教室に、外国から来た若い人や、学校に行けなかった年寄りが、十人ほど通っている。
卒業式では、一人ずつ、作文を読む。
先生は、読む前に、黒板に題を書いてください、と言った。
自分の手で、自分の字で、と。
わたしは、毎晩、坂を下りて、バスに乗って、教室に通った。
雨の日も、雪の日も、八年、ほとんど休まなかった。
かばんの中には、ノートと、えんぴつと、小さな消しゴム。
七十をすぎて、初めて持った、自分の学校のかばんだった。
バスの窓から、夜の港の明かりが見える。
暗い海の上に、白い光が、ぽつぽつと並んでいる。
その光を見ると、今夜も行けると思った。帰りのバスでも、同じ光を見た。
第二章 字の無い七十年
わたしは、小学校に、二年しか行っていない。
八つのとき、父が死んだ。
母と二人、駅前のいちばで、野菜を売った。
十のとき、母も、体をこわした。
わたしは、学校をやめて、町の旅館に、住みこみで働きに出た。
朝は暗いうちから、夜は遅くまで、ふき掃除と、洗い物をした。
字を習う時間は、どこにも無かった。
そのまま、大人になった。
字が読めないことを、わたしは、ずっと、かくしてきた。
役所の紙は、目が悪いからと言って、人に書いてもらった。
駅の看板は、色と形で覚えた。
病院の薬の袋は、袋の大きさで、覚えた。
いちばんつらかったのは、手紙だった。
旅館で働いていたころ、母から、一度だけ、手紙が来た。
わたしは、それを読めなかった。
だれかに読んでもらうのも、はずかしかった。
ふところに入れたまま、一か月、持ち歩いた。
そのうちに、母が死んだという知らせが来た。
手紙は、最後まで、だれにも読んでもらわなかった。
今も、その手紙は、たんすの引き出しに入っている。
夫だけは、知っていた。
結婚したとき、正直に言った。
夫は、そうか、とだけ言って、それからは、手紙や役所の紙を、だまって読んでくれた。
四十年、夫は、一度も、わたしに字を習えとは言わなかった。
わたしも、習いたいとは、言わなかった。
七十年、わたしの前にある字は、全部、黒いかたまりだった。
新聞も、看板も、手紙も。
何が書いてあるのか、わからない、黒いかたまり。
わたしの一生も、そうだと思っていた。
何も書かれていない、ただの黒。
第三章 黒板
夫が死んで、一年たったころ、市役所の掲示板の前で、知らない女の人に声をかけられた。
何か、お困りですか。
わたしは、読めないんです、と言った。
七十年あまりで、初めて、知らない人に、そう言った。
その人は、夜間中学の先生だった。
七十二の春、わたしは、初めて、夜の教室に入った。
教室の前に、大きな黒板があった。
先生は、そこに、白いチョークで、「あ」と書いた。
黒い板の上に、白い線が、一本、また一本。
わたしは、それを、じっと見ていた。
黒いところに、線を引くと、字になる。
字は、黒を消したところに、できる。
そんなことを、初めて知った。
となりの席には、ベトナムから来た、二十歳の女の子が座っていた。
工場で働きながら、日本語を習っている子だった。
わたしと同じように、えんぴつを、ぎゅっと、にぎっていた。
ひいおばあちゃんと、同じ年くらいね、と言って、その子は笑った。
わたしも、少し笑った。
五十いくつ年のちがう二人が、同じ「あ」を、同じ黒板の前で、書いていた。
第四章 一本ずつ
最初の一年は、ひらがなを書いた。
手が、ふるえた。
えんぴつの持ち方も、わからなかった。
一つの字を書くのに、何分もかかった。
家に帰っても、新聞の広告の裏に、毎晩、書いた。
ひと月で、広告の裏は、何十枚も、えんぴつの字で黒くなった。
黒くなった紙を見て、少し、うれしかった。
これだけ、書いたのだと思った。
二年目に、カタカナを覚えた。
三年目に、漢字を、一つずつ。
自分の名前を漢字で書けた夜、アパートの台所で、一人で泣いた。
五年目に、初めて、本を一冊、読み終えた。
子ども向けの、薄い本だった。
でも、最後の一ページを読み終えたとき、窓の外が、明るく見えた。
八年で、覚えた漢字は、千を少しこえた。
どの字も、一本ずつ、自分の手で、引いた線だった。
六年目の冬、わたしは、たんすの引き出しから、母の手紙を出した。
六十年以上、ふところと引き出しに入れてきた手紙。
封を開けると、紙は、黄ばんで、やわらかくなっていた。
えんぴつの、たどたどしい字だった。
母も、字は、少ししか書けなかったのだ。
げんきですか。からだに、きをつけて。
それだけだった。
わたしは、それを、自分の目で、読んだ。
六十年かかって、やっと、母の声が、聞こえた。
第五章 黒だったから
卒業作文を書いているとき、先生が、言った。
あなたの作文は、みんなの中で、いちばん、言葉が重いですね。
わたしは、首をかしげた。
字を覚えたのは、いちばん遅いのに。
先生は、言った。
七十年、黒いかたまりだった字が、一つずつ、読めるようになった人の言葉だからです。
黒いところが、広かった人ほど、白い線は、はっきり見えるんです。
わたしは、教室の黒板を見た。
はじめは、全部、黒かった。
わたしの七十年は、何も書かれていない、黒だった。
でも、その黒が無かったら、白い線は、引けなかった。
黒板が、真っ黒だから、チョークの線が、見える。
わたしの字は、黒を、一本ずつ、けずり出したものだった。
あの旅館の、暗い朝も。
読めない看板の前で、立ちつくした日も。
全部、わたしの字の、まわりの黒だった。
黒は、消えたのではない。
今も、わたしの字のまわりに、ちゃんとある。
だから、わたしの字は、見えるのだ。
黒かった七十年は、何も書かれていなかったのではなかった。
これから彫る字のための、版木だったのだ。
エピローグ
卒業式の夜、わたしは、教壇に上がった。
白いチョークを持って、黒板の前に立った。
手が、少しふるえた。
一本ずつ、線を引いた。
「はじめは、ぜんぶ黒かった」
ふり返ると、教室のみんなが、こちらを見ていた。
先生が、うなずいた。
わたしは、作文を読みはじめた。
声は、ふるえなかった。
読み終えて、席にもどる前に、もう一度、黒板を見た。
黒い板の上に、白い字が、まっすぐに並んでいた。
帰りのバスの窓から、夜の港が見えた。
暗い海の上に、船の明かりが、白い線のように、のびていた。
八年、毎晩見てきた明かりだった。
今夜は、それが、字のように見えた。
アパートに帰ると、わたしは、たんすの引き出しから、母の手紙を出した。
そして、その横に、卒業作文を、そっと置いた。
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