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台所の布目

布の目が、写っていた

台所の布目

朗読で聴く

第一章 日曜日のパン

七十になった。

カナダの、麦畑の広がる州の、小さな町に住んでいる。

町のはずれに、穀物をためておく、高い塔が立っている。

わたしは、そこで、四十年、働いた。

妻のアンは、五年前に死んだ。

娘のケイトは、三十八になる。北の大きな町で、学校の先生をしている。

毎週、日曜日の朝、わたしは、パンを焼く。

粉をこねて、丸めて、台所の古いテーブルの真ん中に置く。

その上に、リネンのふきんを、一枚かける。

生地がふくらむまで、一時間。

わたしは、コーヒーを飲みながら、そのふきんを、ながめている。

二十のころから、ずっと、そうしてきた。

なぜ、パンを焼くようになったのか、自分でも、よくわからない。

だれに習ったのでもない。

ただ、日曜日の朝になると、手が、粉に伸びる。

アンは、よく笑っていた。

あなたの日曜日は、ふきんをながめる日ね。

穀物の塔の仕事は、きつかった。

夏は、粉ぼこりの中で、汗だくになった。

冬は、零下三十度の風の中で、トラックの麦を受け取った。

それでも、日曜日の朝だけは、台所で、粉をこねた。

焼けたパンを、アンとケイトと、三人で食べた。

アンが死んでからは、一人で焼いて、半分を、となりの家に持っていく。

五年、それを続けている。

第二章 覚えていない母

母のマーサは、わたしが九つのときに死んだ。

病気だった。

わたしは、母のことを、ほとんど覚えていない。

顔も、声も、はっきりとは、思い出せない。

写真は、二枚しか残っていない。

どちらも、遠くから撮ったもので、顔が小さい。

母が死んで二年後、父は、再婚した。

新しい母は、やさしい人だった。

わたしを、自分の子どもと同じように、育ててくれた。

本当の母のことを、だれも話さなくなった。

わたしも、聞かなかった。

一度だけ、十五のとき、父に聞いたことがある。

母さんは、どんな人だったの。

父は、しばらく黙って、それから、働き者だったよ、とだけ言った。

それ以上、聞けなかった。

母がいた九年は、わたしの中に、何も残っていない。

そう思ってきた。

台所のテーブルは、母が嫁入りのときに、持ってきたものだという。

父が死んだとき、わたしが、それを引き取った。

古くて、重くて、表面は、傷だらけだ。

アンは、新しいのに替えましょうよ、と何度か言った。

わたしは、なぜか、替えられなかった。

第三章 テーブルを渡す

この春、ケイトが、北の町に、初めて自分の家を買った。

電話で、ケイトが言った。

お父さん、あの台所のテーブル、わたしにくれない。

わたしは、少し驚いた。

あんな古いもの。

ケイトは、笑った。

古いのがいいの。表面を、きれいに削って、仕上げ直すから。

わたしは、いいよ、と言った。

テーブルが無くなったら、日曜日のパンは、どこでこねようか、と思った。

でも、ケイトが欲しいと言ったのは、初めてだった。

六月の終わり、ケイトが、トラックを借りて、取りに来た。

次の日、ケイトは、裏庭にテーブルを出して、表面を削りはじめた。

わたしは、台所の窓から、それを見ていた。

何十年分の傷が、少しずつ、白い木くずになって、落ちていった。

アンが、ケイトの誕生日のケーキを切ったときの、ナイフの跡。

ケイトが、小さいころ、フォークでつけた、いたずらの線。

削られるたびに、少し、さびしかった。

でも、口には出さなかった。

古い物は、こうやって、新しい人のものになるのだと思った。

第四章 夕方の光

夕方、ケイトが、裏口から、わたしを呼んだ。

お父さん、ちょっと、来て。

裏庭に出ると、ケイトは、削る手を止めて、テーブルの横に立っていた。

低い夕日が、横から、テーブルの上に、長く当たっていた。

見て。ここ。

ケイトが、指さしたのは、テーブルの真ん中だった。

四角い形に、細かな模様が、うっすらと浮かんでいた。

縦と横の、細い筋が、ぎっしりと、交わっている。

布の目だった。

ケイトが、言った。

これ、布の目だよね。何年も、毎日、同じところに布を置いていたら、こうなるの。

削ろうとしたら、出てきたの。上の傷は消えたのに、これだけ、消えないの。

わたしは、テーブルのそばに、しゃがんだ。

指で、そっと、なでた。

かすかに、ざらりとした。

まわりの木は、つるりと削れているのに、そこだけ、目が残っていた。

第五章 ふきんの下

そのとき、急に、思い出した。

朝の台所。

テーブルの真ん中に、白いふきんがかかっている。

ふきんの下で、何かが、ゆっくりと、ふくらんでいく。

わたしは、いすに座って、それを、じっと見ている。

六つか、七つのころだ。

そばに、だれかが立っている。

粉のついた手で、わたしの頭を、そっと、なでる。

もう少しよ。ふきんを、取っちゃだめよ。

母の顔は、やっぱり、思い出せなかった。

でも、その声と、ふきんの白さは、はっきりと、思い出した。

母は、毎日、このテーブルで、パンをこねていたのだ。

毎日、真ん中に、リネンのふきんをかけていたのだ。

そして、わたしは、母が死んで十年ほどたってから、同じことを始めた。

同じテーブルの、同じ真ん中に、ふきんをかけて。

だれにも、習わずに。

母の形は、何も、残っていないと思っていた。

でも、母のふきんの目は、テーブルに写っていた。

そして、わたしの日曜日の手にも、写っていた。

削っても、消えなかった。

テーブルの布目は、一枚のふきんの目ではなかった。

母の十年あまりと、わたしの五十年が、同じところに、重なっていた。

どこまでが母のふきんで、どこからがわたしのふきんか、もう、わからなかった。

わたしは、何ももらわなかったのではなかった。

毎朝、ふきんの下でふくらむパンを見ていた子どもの目に、母は、押し当てられていたのだ。

ケイトが、言った。

ここだけ、削らないでおくね。

わたしは、うなずいた。

それから、ケイトに、母の話をした。

覚えていることは、ほとんど無かった。

ふきんの白さと、粉のついた手と、もう少しよ、という声。

それだけだった。

ケイトは、黙って聞いていた。

それから、テーブルの布目を、もう一度、指でなぞった。

おばあちゃんの手、ここにあるんだね。

夕日が沈むまで、二人で、そのテーブルのそばにいた。

エピローグ

七月の最初の日曜日、ケイトから、電話があった。

お父さん、今、パン、焼いてるの。

わたしは、驚いた。ケイトがパンを焼くとは、知らなかった。

ケイトは、笑った。

習ってないから、うまくいくか、わからないけどね。

でも、なんだか、手が知ってる気がするの。

小さいころ、日曜日に、お父さんのふきんを、ずっと見てたから。

テーブルの真ん中に、お父さんのふきん、かけてあるよ。

帰る前の日、わたしは、いちばん古い一枚を、トラックの荷物の中に入れておいたのだ。

わたしは、新しく買った小さなテーブルで、一人で粉をこねた。

生地を真ん中に置いて、残りのふきんを一枚、かけた。

窓から、朝の光が、低く入ってきた。

ふきんの目が、テーブルの上に、細かな影を落としていた。

ソウルミッション358

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