土手の写真
灰色ではなく、緑だった

朗読で聴く
第一章 一日に一枚
四十四になった。
川のある地方の町で、夫と、高校一年の息子と暮らしている。
市役所の近くの会社で、事務の仕事をしている。
去年の春、三年ぶりに、仕事に戻った。
三年前、四十一の春に、朝、起き上がれなくなった。
体は、どこも悪くなかった。
ただ、何をしても、何も感じなかった。
お医者さんは、心が、つかれきっているのだと言った。
その前の年まで、わたしは、ずっと走っていた。
会社では、人の倍の仕事を引き受けた。
家に帰れば、ごはんを作り、陸の宿題を見て、洗たくをした。
夜中に、次の日の段取りを考えて、眠れなかった。
それが、ある朝、止まった。
布団の中で、目をあけたまま、動けなかった。
会社を休んだ。それが、三年になった。
お医者さんに、一つだけ、言われたことがある。
毎日、少しだけ、外を歩いてください。
そして、一日に一枚だけ、写真をとってください。
何でもいいです。同じものでも、いいです。
わたしは、家のそばの川の土手を歩いた。
そして、毎日、同じところで、一枚だけ、写真をとった。
土手のとちゅうにある、古いベンチと、その向こうの柳の木。
三年で、千枚をこえた。
第二章 灰色の三年
あの三年のことを、わたしは、灰色で覚えている。
空も、川も、柳も、ベンチも。
どれも、色の無い、うすい灰色だった。
朝、夫を送り出して、息子を学校へ送り出す。
それから、横になる。
昼すぎに、やっと起きて、土手まで歩く。
ベンチの前で、写真を一枚とる。
とった写真を、見返したことは、一度も無い。
見たくなかった。
灰色の毎日が、そのまま写っていると思った。
夕方、息子の陸が、学校から帰ってくる。
陸は、十三だった。中学一年の春だ。
新しい制服が、まだ大きすぎた。
わたしは、その制服の名札を、つけてあげることもできなかった。
わたしは、おかえり、と言うのが、やっとだった。
夕ごはんは、ほとんど、夫が作った。
夫の健司は、何も言わなかった。
早く元気になれ、とも、がんばれ、とも言わなかった。
ただ、毎朝、わたしの分のお茶を、台所のテーブルに置いて出かけた。
わたしは、それを、昼すぎに、冷めたまま飲んだ。
お茶の色さえ、灰色に見えた。
テレビをつけても、何を言っているのか、頭に入らなかった。
本を開いても、同じところを、何度も読んだ。
時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
陸の中学の三年間を、わたしは、ほとんど覚えていない。
運動会にも、行けなかった。
陸のいちばん大事な三年を、灰色にしてしまった。
そう思って、何度も、夜中に泣いた。
第三章 戻った春
去年の春、少しずつ、朝、起きられるようになった。
お医者さんと相談して、会社に戻った。
最初は、半日だけ。夏から、一日。
仕事に戻ってから、土手には、行かなくなった。
写真も、とらなくなった。
スマートフォンの中の千枚は、そのままにしていた。
消そうと思ったこともある。
でも、指が、動かなかった。
陸は、この春、高校に入った。
背が、わたしより、ずっと高くなった。
あまり話さない子になった、と思っていた。
あの三年のせいだ、とも思っていた。
会社の人たちは、やさしかった。
無理しないでね、と何度も言われた。
そのたびに、三年も休んだ自分が、はずかしかった。
同じ年に入った人たちは、みんな、上の仕事についていた。
わたしだけ、三年、どこにも進まなかった。
灰色のまま、止まっていた。
そう思うと、仕事の帰りに、あの土手の道を通るのが、こわかった。
遠回りをして、駅から家に帰った。
第四章 これ、全部
先月の日曜日、陸が、わたしのスマートフォンを借りた。
友だちの電話番号を、調べたいと言った。
しばらくして、陸が、となりの部屋から言った。
お母さん。これ、何。
陸は、写真の画面を、わたしに向けた。
土手のベンチと、柳の木。
何百枚も、同じ写真が、並んでいた。
わたしは、毎日、とってたの、と言った。
お医者さんに、言われて。
陸は、黙って、画面を下へ送った。
指が止まるたびに、同じベンチと、同じ柳が出てきた。
どれも、ほとんど同じ写真だった。
それから、言った。
これ、全部、緑じゃん。
わたしは、画面をのぞきこんだ。
春の柳が、うすい緑だった。
夏の土手の草は、こい緑だった。
秋になっても、柳の下の草は、まだ緑だった。
冬の写真でさえ、川べりのささやぶが、緑をしていた。
わたしが覚えている灰色は、一枚も、無かった。
雨の日の写真も、あった。
雨にぬれた柳の葉が、つやつやと、こい緑に光っていた。
雪の日の写真も、あった。
白い土手の下から、ベンチの足もとに、小さな草が、緑の先を出していた。
わたしは、画面を持つ手が、ふるえた。
これを、わたしが、とったのか。
毎日、この前に立って、とっていたのか。
あのとき、わたしの目には、何が見えていたのだろう。
第五章 影の長さ
陸は、画面を送りつづけた。
あ、これ、おれ。
陸が止めた写真には、ベンチの手前に、細長い影が写っていた。
中学一年の夏だった。
陸は、日曜日だけ、わたしといっしょに、土手を歩いていた。
わたしは、それも、ほとんど覚えていなかった。
写真を送っていくと、ときどき、その影が写っていた。
影は、写真を送るたびに、少しずつ、長くなっていった。
陸が、言った。
おれ、あの三年、けっこう好きだったよ。
学校から帰ると、お母さんが、家にいたから。
日曜日に、いっしょに、土手を歩いたから。
お母さん、何も話さなかったけど。
それで、よかった。
わたしは、何も言えなかった。
灰色ではなかった。
わたしの目に、灰色に見えていただけで、土手は、毎日、緑だった。
柳は、毎年、芽を出していた。
陸の影は、毎週、のびていた。
わたしが、何も感じられなかったあいだも、
わたしのそばで、ちゃんと、育っていたのだ。
その夜、夫に、写真のことを話した。
夫は、うなずいて、言った。
知ってたよ。陸が、日曜日のたびに、話してくれたから。
今日も、お母さん、写真とったよって。
毎日とってるなら、大丈夫だと思ってた。
一枚とるために、毎日、外へ出てたんだから。
わたしは、灰色の三年だと思っていた。
どこにも進まなかった三年だと思っていた。
でも、わたしは、毎日、土手まで歩いて、一枚、とっていた。
それだけは、一日も、休まなかった。
エピローグ
次の日曜日、陸と、土手を歩いた。
一年ぶりだった。
ベンチの前で、陸が言った。
一枚、とったら。
わたしは、スマートフォンをかまえた。
柳の木は、春の、うすい緑だった。
今度は、とる前から、ちゃんと、緑に見えた。
陸の影が、ベンチの上まで、のびていた。
帰り道、陸が、少し先を歩いた。
あの三年、わたしの前を歩いていたのも、この背中だったのだろう。
覚えていなくても、写真の中に、ちゃんと、残っていた。
その夜、千枚の写真のいちばん後ろに、新しい一枚が増えた。
春の柳と、古いベンチと、のびた影。
画面の中で、それは、はっきりと、緑だった。
あなたの魂のテーマに気づく場所