利休鼠
灰色ではなく、緑だった

朗読で聴く
第一章 鼠色の一枚
七十四になった。
古い城下町の、細い通りに住んでいる。
夫と二人で、四十四年、小さな豆腐屋をやってきた。
夫は、六年前に死んだ。七十八だった。
店は、そのときに閉めた。
娘の美和子は、四十八になる。となりの市に嫁いでいる。
孫の千夏は、二十二。この春、大学を出る。
たんすの一番上の引き出しに、着物が一枚だけ入っている。
無地の、鼠色の着物だ。
二十四で嫁いだ日に、しゅうとめがくれた。
うちの嫁は、これを着なさい。
しゅうとめは、それだけ言った。
わたしは、五十年、その一枚を着てきた。
しゅうとめの葬式も。美和子の入学式も、卒業式も。
美和子の結婚式も。夫の葬式も。法事も。
ほかの着物は、一枚も持たなかった。
鼠色は、どこへ着て行っても、目立たない。
それで、いいのだと思ってきた。
しゅうとめは、無口な人だった。
豆腐の作り方も、店の帳場のことも、言葉では教えなかった。
ただ、毎朝、わたしの横で、黙って手を動かした。
わたしは、それを見て、覚えた。
しゅうとめが死んだのは、わたしが三十八のときだ。
お葬式の朝、わたしは、あの鼠色の着物を着た。
それから、何か大事な日があるたびに、引き出しを開けた。
ほかの着物を買おうと思ったことは、一度も無い。
お金も無かったし、着て行くところも、無かった。
第二章 灰色の毎日
豆腐屋の朝は、早い。
夜中の三時に起きて、大豆をひく。
夫と二人、湯気の中で、黙って手を動かす。
夜が明けるころ、豆腐が水の中に並ぶ。
七時に店を開けて、夕方に閉める。
次の朝、また、三時に起きる。
旅行に行ったことは、一度も無い。
習いごとも、しなかった。
美和子が十六のとき、台所で言った。
お母さんって、いつも灰色だね。
着物も、毎日も。
言い返せなかった。
鼠色の着物に、湯気と大豆の白。
夜明け前の、暗い店。
わたしの一生は、灰色だった。
そう思いながら、五十年がたった。
夫が倒れたのは、六年前の冬の朝だった。
大豆をひいている途中で、急に、しゃがみこんだ。
救急車の中で、夫は、豆腐、と一言だけ言った。
それが、最後の言葉になった。
店は、その月で閉めた。
閉めた日、近所の人たちが、何人も来てくれた。
さびしくなるね、と言われた。
わたしは、すみません、と頭を下げた。
何十年も同じ豆腐を作っていただけなのに、さびしいと言われるのが、よくわからなかった。
それから六年、わたしは、ほとんど、家の中にいる。
朝、三時に目がさめる。起きても、することが無い。
暗い台所で、お茶を飲んで、夜が明けるのを待つ。
第三章 千夏の頼み
去年の暮れ、千夏が、家に来た。
おばあちゃん。卒業式は、あの着物にしたいの。
わたしは、驚いた。
あんな地味なもの。
卒業式なら、もっと、はなやかなのを借りたらいい。
千夏は、首をふった。
お母さんの入学式も、卒業式も、あの着物だったでしょう。
写真で、見たの。
わたしも、あれがいい。
わたしは、しばらく、黙っていた。
灰色の着物を、孫に着せていいのか、わからなかった。
でも、千夏は、もう決めた顔をしていた。
その夜、美和子から電話があった。
千夏が言ったでしょう。あの着物のこと。
わたし、止めなかったの。
美和子は、少し笑った。
お母さん、わたしが十六のとき、灰色だねって言ったの、覚えてる。
覚えている、とは言わなかった。
あれね、悪口のつもりじゃなかったの。
でも、お母さんの顔を見て、言っちゃいけなかったんだって思った。
それから、ずっと、気になってた。
わたしは、いいのよ、とだけ言った。
それで、寸法を直すために、町の古い呉服屋へ持って行った。
第四章 呉服屋の窓
呉服屋の主人は、八十をこえている。
しゅうとめの代から、つきあいのある店だ。
主人は、着物を広げて、しばらく、見ていた。
それから、言った。
これは、灰色じゃありませんよ。
利休鼠です。
わたしは、聞き返した。
灰色の中に、緑が入っている色です。
店の中は暗いから、灰色に見えます。
でも、日に当てると、緑が出るんです。
主人は、着物を持って、窓のそばへ行った。
冬の日が、まっすぐに、着物に当たった。
わたしは、息をのんだ。
鼠色だと思っていた布が、うすく、緑だった。
お茶の葉を、水にひたしたような色。
主人は、言った。
お宅のおばあさまは、よく、わかって選ばれた。
この色は、地味に見えて、着る人の顔を、明るく見せるんです。
着る人のそばにいる人の顔も、ね。
主人は、着物を、そっと台の上にもどした。
おばあさまが、昔、ここで言っておられました。
うちの嫁は、自分が目立つより、まわりを明るくする人だから、と。
わたしは、何も言えなかった。
しゅうとめが、わたしのことを、そんなふうに言っていたとは知らなかった。
五十年、一度も、聞いたことが無かった。
主人は、寸法を書きとめながら、言った。
五十年、よく着られましたね。布が、やわらかくなっている。
大事な日にだけ着て、ていねいにしまわれていたんでしょう。
第五章 日に当てると
家に帰って、古いアルバムを出した。
美和子の入学式の写真。
桜の下で、美和子が笑っている。
その横で、わたしが、鼠色の着物を着て立っている。
店の暗いところでしか見てこなかった、あの着物。
写真の中では、春の日に当たって、うすく、緑に見えた。
どの写真も、そうだった。
千夏のお宮参りの写真もあった。
生まれたばかりの千夏を抱いて、神社の石段に立っている。
その着物も、日の中で、やわらかい緑をしていた。
卒業式も。結婚式も。
わたしは、ずっと、日の当たるところで、それを着ていたのだ。
そして、気がついた。
わたしの毎日も、同じだったのかもしれない。
夜明け前の暗い店では、灰色にしか見えなかった。
でも、あの豆腐を食べた家の朝には、日が当たっていた。
毎朝、豆腐を買いに来た近所の人たち。
夏祭りに、冷ややっこを配った年。
美和子が、豆腐のみそ汁で、熱を下げた冬。
灰色ではなかった。
日に当てると、緑だった。
ただ、わたしが、暗い店の中からしか、見ていなかっただけだ。
店を閉めた日に、さびしくなるね、と言ってくれた人たち。
あの人たちには、わたしの毎日が、日の当たる側から見えていたのだ。
夫の最後の一言も、そうだったのかもしれない。
豆腐。
四十四年、夫は、それを灰色だと思ったことが、無かったのだろう。
エピローグ
三月の終わり、千夏の卒業式。
千夏は、利休鼠の着物を着て、大学の門の前に立った。
春の日が、まっすぐに当たっていた。
着物は、はっきりと、緑だった。
美和子が、ちょっと泣いていた。
お母さん、この着物、こんな色だったんだね。
わたしは、うなずいた。
五十年、着てきて、わたしも、今日、知ったよ。
千夏が、門の前で、くるりと回った。
うすい緑が、日の中で、ゆれた。
次の朝、わたしは、三時に目をさました。
暗い台所で、お茶をいれた。
夜が明けると、窓から日が入ってきた。
湯のみのお茶が、日に当たって、うすく緑に光った。
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