同じストライクゾーン
見せ場は、一つも無かった

朗読で聴く
第一章 マスクの内側
六十四になった。
アメリカの、オハイオの小さな町に住んでいる。
とうもろこし畑の真ん中に、町が一つ、ぽつんとある。
昼は、町の金物屋で働いている。三十年になる。
春から秋の夕方は、野球の審判をしている。
町の高校の試合と、子どもたちのリーグの試合だ。
二十九で始めて、三十五年になる。
妻のキャロルとは、四十年、連れそっている。
息子のダニーは、三十五になる。コロンバスという大きな町で、高校の先生をしている。
審判は、キャッチャーのうしろに、しゃがむ。
黒いマスクをつけて、一球ずつ、見る。
ストライク。ボール。
言うことは、それくらいだ。
三十五年、わたしは、同じところで、ストライクと言ってきた。
一回の一球目も、九回の最後の一球も、同じところで。
相手が強い学校でも、弱い学校でも、同じところで。
それが、審判の仕事だと、教わった。
最初に教わったのは、町の古い審判のハロルドさんだった。
ゾーンは、おまえのものじゃない。試合のものだ。
一回に決めたところを、九回まで、動かすな。
点差がついても、雨が降っても、動かすな。
ハロルドさんは、それだけ言って、二年後に死んだ。
わたしは、それを、三十五年、守ってきた。
試合の前には、ホームベースの土を、小さなはけで、きれいにはらう。
五角形の白い板が、いつも同じに見えるように。
第二章 名前の無い仕事
審判には、見せ場が無い。
いい試合のあとで、審判の名前を覚えている人はいない。
町の新聞に、試合のことは毎週のる。
打った子の名前も、投げた子の名前ものる。
審判の名前が出るのは、何かまちがえたときだけだ。
三十五年、わたしの名前は、一度も出なかった。
大声でどなる監督を、退場させたことも無い。
きわどい一球で、町じゅうがわくような判定をしたことも無い。
同じところで、同じように、言ってきただけだ。
若いころは、野球の選手になりたかった。
高校では、三年間、ほとんど、ベンチにいた。
最後の試合も、ベンチで終わった。
審判を始めたのは、少しでも、グラウンドの上にいたかったからだ。
でも、グラウンドの上でも、わたしは、いないのと同じだった。
わたしの一生には、見せ場が、一つも無い。
ずっと、そう思ってきた。
キャロルは、ときどき、試合を見に来た。
帰りの車で、何か言ってくれたことは、あまり無い。
一度だけ、今日も、いつもと同じだったね、と言った。
それが、ほめ言葉なのかどうか、わからなかった。
第三章 あの一球
一度だけ、町じゅうが、わたしを見た日がある。
十八年前の、地区の決勝だった。
その日、決まっていた審判がかぜで休み、わたしが呼ばれた。
打席に入る町の高校の選手の中に、息子がいた。
ダニーは、十七だった。
断ろうかと思った。でも、ほかに、だれもいなかった。
九回の裏、ツーアウト、満塁。一点を追っていた。
打席には、ダニーが立っていた。
フルカウントからの、六球目だった。
外角いっぱいの、低いところ。
わたしが、十七年、いつもストライクと言ってきたところだ。
ストライク、と言った。
見逃しの三振で、試合は終わった。
相手の学校の選手たちが、グラウンドに飛び出した。
ダニーは、打席に立ったまま、動かなかった。
帰り道、町の人たちが、聞こえるように言った。
自分の息子に、あれは、ないだろう。
ボールと言えば、押し出しで、同点だったのに。
ダニーは、何週間も、わたしと口をきかなかった。
次の年、大学へ行くために町を出て、そのまま、町には戻らなかった。
電話は、キャロルとばかり話した。
大学を出て、コロンバスで先生になり、結婚して、サムが生まれた。
知らせは、いつも、キャロルから聞いた。
感謝祭やクリスマスに、帰ってくることはあった。
でも、野球の話は、一度も、しなかった。
わたしも、聞けなかった。
息子の、いちばんの見せ場を、わたしが消したのだと思ってきた。
あの日、ボールと言っていたら。
十八年、ときどき、夜中に、その一球を思い出した。
何度思い出しても、球は、外角いっぱいの、同じところを通った。
第四章 最後の試合
この春、ひざが、いうことをきかなくなった。
しゃがんで、立つたびに、痛む。
この秋の試合で、審判をやめることにした。
最後の試合の日、スタンドに、ダニーがいた。
八つの息子のサムを、連れていた。
キャロルが、知らせたのだと思う。
最後の試合も、いつもと同じだった。
九回まで、同じところで、ストライクと言った。
だれも、わたしのことを見ていなかった。それで、よかった。
試合のあと、ダニーが、ベンチのそばに来た。
父さん、あの一球のこと、覚えてるよね。
わたしは、うなずいた。すまなかった、と言った。
ダニーは、首をふった。
あれは、ストライクだった。
通った瞬間に、わかったよ。
十年、スタンドから、父さんの試合を見てたんだ。
父さんが、あそこをストライクと言うのを、何百回も見た。
もし、あの日だけ、ボールと言われてたら。
ぼくは、それまで打ったヒットが、全部、ぼくのものか、わからなくなってた。
父さんのゾーンが、いつも同じだったから、本当のストライクがどこか、知ってた。
だから、ぼくの打ったヒットは、ぼくのものだった。
第五章 同じところ
ダニーは、続けた。
いまね、高校で、野球も教えてるんだ。
選手に、いつも言ってる。
一回と九回で、同じところをストライクと言う審判を、信じろって。
そういう人の前で打ったヒットは、本物だからって。
ぼくの選手にも、いつか、一回と九回で、同じところをストライクと言う人が、必要なんだ。
審判のことを、町の人は覚えていないかもしれない。
でも、打った子は、覚えてるよ。
自分のヒットが、本物だったってことを。
ぼくの高校の三年間のヒットは、三十一本だった。
一本も、もらったものは無かった。
それを、ぼくは、ずっと、誇りに思ってきたんだ。
わたしは、マスクを手に持ったまま、立っていた。
見せ場は、一つも無かった。
三十五年、同じところで、ストライクと言ってきただけだ。
でも、その同じゾーンの上で、子どもたちは、自分の打ったヒットを知った。
自分の投げた球を知った。
わたしが動かなかったから、子どもたちの形が、はっきり見えた。
あの一球も、そうだった。
わたしは、息子の見せ場を消したのではなかった。
息子が打ってきた、全部のヒットを、本物にしていたのだ。
スタンドの上で、キャロルが、こちらを見ていた。
今日も、いつもと同じだったね。
あれは、ほめ言葉だったのだと、そのとき、やっとわかった。
エピローグ
帰る前に、ダニーが言った。
来年の春、うちの二軍の練習試合で、一度だけ、審判をしてくれないかな。
ひざが、と言いかけて、やめた。
サムが、わたしのマスクを、両手で持っていた。
重いね、と言った。
ダニーが、笑った。
同じゾーンで、たのむよ。
わたしは、マスクを受けとって、うなずいた。
同じところで、言うよ。
帰り道、とうもろこし畑の向こうに、日がしずんでいった。
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