いつもの伴奏
見せ場は、一つも無かった

朗読で聴く
第一章 ピアノのいす
四十一になった。
海の見える地方の町で、夫と二人で暮らしている。
子どもは、いない。
昼は、駅前の楽器店で、ピアノを教えている。
週に二回、夕方から、市の少年少女合唱団で、伴奏を弾く。
二十三の春から、十八年になる。
練習は、市民会館の、小さな練習室でする。
子どもたちが、半円に並んで立つ。
その前に、指揮の村井先生が立つ。
わたしは、いちばん後ろの、すみのピアノの前に座る。
子どもたちからは、背中しか見えない。
それで、いいのだと、ずっと思ってきた。
伴奏は、前に出てはいけない。
歌より大きく弾かない。速くも、おそくもしない。
毎回、同じ速さで、同じ強さで、同じように弾く。
十八年、それだけを、守ってきた。
子どもたちは、毎年、入れかわる。
小学生で入ってきて、中学を出ると、やめていく。
声の高い子、低い子。大きな声の子、小さな声の子。
その日の調子も、毎回、ちがう。
かぜをひいた子がいる。泣いたあとで来る子もいる。
わたしは、その一人一人を、ピアノのいすから、背中ごしに聞いている。
聞いて、何も変えない。
速さも、強さも、いつもと同じに弾く。
変えないことが、伴奏の仕事だと、前の伴奏の人に教わった。
第二章 届かなかった春
小さいころは、ピアニストになりたかった。
広い舞台の真ん中で、一人で弾く人に。
毎日、六時間、練習した。
十八の春、東京の音大を受けた。
落ちた。
次の年も、受けた。また、落ちた。
二十の春、地元の短大に入った。
ピアノの先生の資格をとって、町の楽器店に勤めた。
二十三のとき、店の主人に、たのまれた。
合唱団の伴奏の人が、やめるんだ。少しのあいだ、弾いてくれないか。
少しのあいだが、十八年になった。
初めのころは、つい、強く弾いてしまった。
自分の音を、聞いてほしかったのだと思う。
村井先生に、何度も、止められた。
ピアノが、歌の前に出ています。もう少し、下にいてください。
下にいる、という言葉が、悔しかった。
それでも、言われたとおりに弾いた。
一年、二年とたつうちに、強く弾くことは、なくなった。
二十八で、夫と結婚した。夫は、市役所に勤めている。
夫は、演奏会に、毎回、来てくれた。
でも、帰り道で、君のピアノはよかった、とは言わなかった。
聞こえなかったのだと思う。聞こえないように、弾いていたのだから。
演奏会のたびに、わたしは、舞台のすみで弾いた。
お客さんの目は、真ん中の子どもたちに向いていた。
拍手も、子どもたちと、村井先生のものだった。
それで、いい。伴奏とは、そういうものだ。
そう言いながら、帰りの車の中で、ときどき思った。
わたしの一生には、見せ場が、一つも無い。
あの春に、見せ場の無い人生が、決まったのだと。
第三章 三十周年
この春、合唱団が、三十周年をむかえた。
秋に、記念の演奏会を開くことになった。
前の団員にも、声をかけた。
夏の終わり、練習室に、背の高い女の人が入ってきた。
真奈だった。
二十九になる。わたしが伴奏を始めた年に、十一で入ってきた子だ。
いまは、東京で、歌の仕事をしている。
村井先生が、記念の演奏会で、真奈に一曲、一人で歌ってもらう、と言った。
その伴奏も、わたしが弾く。
練習のあと、村井先生が、わたしに言った。
あなたにも、一曲、一人で弾いてもらおうか。三十周年だから。
わたしは、首をふった。
伴奏が、前に出ては、いけませんから。
言いながら、少し、胸が痛んだ。
一人で弾く、という言葉を、二十年ぶりに聞いた気がした。
その夜、家で、久しぶりに、一人で弾く曲の楽譜を出した。
十八の春に、試験で弾いた曲だ。
指が、思うように、動かなかった。
何度か弾いて、ふたを閉めた。
もう、一人で弾く人ではないのだ、と思った。
十八年、すみで、同じように弾いてきた指だ。
第四章 声の出なかった半年
何度目かの練習のあと、真奈が、ピアノのそばに来た。
先生、覚えてますか。わたし、十四のとき、声が出なくなったんです。
覚えていた。
真奈の母親が、重い病気で入院した年だ。
お母さんは、その冬に、亡くなった。
真奈は、練習に来ても、口を開けるだけで、声が出なかった。
半年、いちばん後ろの列に、ただ立っていた。
あのとき、毎週、先生のピアノを聞いてました。
いつも、同じだったんです。速さも、強さも、間のとり方も。
家の中は、毎日、ちがってたんです。
母の具合も、父の顔も、毎日ちがった。
でも、先生のピアノだけは、毎週、同じでした。
声が戻った日のこと、覚えてますか。
覚えていなかった。
いつもの曲の、いつもの小節で、急に、声が出たんです。
先生のピアノが、いつもと同じところにいたから、入れたんです。
ピアノが毎週ちがってたら、どこから入ればいいか、わからなかった。
真奈は、少し笑った。
それに、先生のピアノは、一度も、前に出てこなかった。
だから、わたしの声が、わたしの声のまま、聞こえたんです。
東京で、いろんなピアノの人と歌ってきました。
上手な人は、たくさんいました。
でも、自分の声が、いちばん自分の声に聞こえたのは、ここでした。
だから、記念の演奏会は、先生に弾いてほしかったんです。
いつもと、同じに。
第五章 平らな音
その夜、家に帰って、夫に、その話をした。
夫は、黙って聞いていた。
それから、言った。
君は、十八年、自分が消えてると思ってたんだね。
消えてたんじゃない。下に、ずっと、いたんだよ。
君のピアノがよかったって、言ったことがなかったね。
聞こえなかったからじゃない。歌が、よく聞こえたからだよ。
ピアノがいいときは、歌がいいんだって、いつのまにか、わかってた。
わたしは、台所の窓から、暗い海を見ていた。
十八年分の子どもたちの顔が、一人ずつ、浮かんだ。
かぜの子。泣いたあとの子。声の小さかった子。
見せ場は、一つも無かった。
毎週、同じ速さで、同じように弾いてきただけだ。
でも、その平らな音の上に、子どもたちの声が、一人ずつ、浮かんでいた。
声の出ない子が、どこから入ればいいか、わかるように。
声の小さい子の声が、ちゃんと、聞こえるように。
前に出なかったから、子どもたちの声は、形になった。
見せ場が無かったのは、まちがいではなかった。
十八年、わたしは、それを弾いていたのだ。
エピローグ
秋の演奏会の夜。
真奈が、舞台の真ん中で、一人で歌った。
わたしは、いつものように、すみのピアノで弾いた。
いつもの速さで。いつもの強さで。
真奈の声が、会館のいちばん後ろまで、まっすぐに届いた。
歌のとちゅうで、真奈が、一度だけ、こちらを見た。
十四のとき、声が戻った、あの小節だった。
わたしは、何も変えずに、弾きつづけた。
真奈の声も、何も変わらずに、そこへ入ってきた。
客席の、いちばん前の列で、夫が目を閉じて聞いていた。
最後に、村井先生が、わたしのほうに手を向けた。
拍手が、少しだけ、こちらに来た。
わたしは、立って、小さく頭を下げた。
そして、座って、アンコールの伴奏を弾いた。
いつもと、同じに。
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