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五十年の点

まっすぐな線も、点の並びだった

五十年の点

朗読で聴く

第一章 金婚式

七十六になった。

古い住宅地の、小さな家に住んでいる。

夫と、二人暮らしだ。

夫は、八十になる。耳が少し遠くなったが、朝の散歩は、まだ一人で行く。

わたしは、近所の公民館で、週に一度、習字を教えている。

筆で、一本、まっすぐな線を引くのは、むずかしい。

生徒たちには、いつも、そう言っている。

この春、夫と、結婚して五十年になった。

娘の美穂が、近くの料理屋で、小さなお祝いの席を作ってくれた。

孫たちも来て、ささやかな、にぎやかな夜だった。

最後に、美穂が、立ち上がってあいさつをした。

お父さんとお母さんの五十年は、まっすぐな一本の線みたいでした。

けんかもせず、ずっと、同じ道を、二人で歩いてきた。

わたしも、こんな夫婦になりたいと思います。

みんなが、拍手をした。

夫は、照れたように、お茶を飲んでいた。

わたしは、笑って、頭を下げた。

でも、心の中では、ちがう、と思っていた。

まっすぐな一本の線なんかでは、なかった。

帰り道、夫と並んで、夜の住宅地を歩いた。

街灯が、点々と、道にそって続いていた。

遠くから見ると、一本の光の線に見えた。

近づくと、一つずつ、離れて立っていた。

第二章 出ていった秋

わたしが三十五の秋、わたしは、この家を出た。

美穂は、七つだった。

二十六で、見合いで結婚した。

夫は、口数の少ない、まじめな人だった。

はじめの十年は、おだやかに過ぎた。

美穂が生まれて、小さな家を建てた。

夫は、あのころ、酒の量がふえていた。

会社で、つらいことがあったらしい。

夜おそく帰ってきて、ものも言わずに、また飲んだ。

わたしが何か言うと、どなった。

ある晩、夫が、わたしの手から茶わんをはらいのけた。

茶わんが、台所の床で、割れた。

次の朝、わたしは、美穂の手を引いて、となり町の姉の家に行った。

もう、もどらないつもりだった。

姉の家で、二か月、暮らした。

美穂は、毎晩、お父さんは、と聞いた。

わたしは、答えられなかった。

昼間、姉の家の縁側で、空を見ていた。

このまま、ここで、美穂と二人で暮らしていけるだろうか。

働き口を、さがそうとも思った。

けれど、夜になると、あの台所のことばかり、思い出した。

夫が、一人で、あの台所で、何を食べているのか。

第三章 もどった朝

二か月たった、冬のはじめの朝だった。

夫が、姉の家の玄関に、立っていた。

顔が、やせていた。

酒をやめた、と夫は言った。

それしか、言わなかった。

わたしは、信じなかった。

信じなかったけれど、美穂の手を引いて、家に帰った。

家の台所に、新しい茶わんが、一つ、置いてあった。

割れたのと、同じ模様だった。

夫が、町じゅうの瀬戸物屋を回って、さがしてきたのだと、あとで知った。

わたしは、その茶わんで、お茶を飲んだ。

何も、言わなかった。

それから、わたしは、一つのことを始めた。

毎朝、台所のカレンダーの、その日のところに、小さな点を一つ、書く。

えんぴつで、ちょんと、一つだけ。

今日も、ここにいる。

だれに言うのでもなく、自分にだけ、言うための点。

えんぴつは、台所の引き出しに、いつも一本、入れておいた。

それを、毎朝、自分で決めるための点だった。

決めなかった日は、点を書かない。

そう決めて、始めた。

第四章 点の数

それから、四十一年、点を書いた。

夫は、本当に、酒をやめた。

それでも、毎朝、点を書いた。

夫と口をきかなかった朝もあった。

夫が入院して、一人で家にいた朝もあった。

美穂が嫁いで、家が急に、しずかになった朝もあった。

どの朝も、カレンダーの前に立って、考えた。

今日も、ここにいるか。

そして、点を一つ、書いた。

一度だけ、点を書けなかった朝がある。

美穂が嫁いだ年の冬、夫とひどい言い合いをした。

次の朝、カレンダーの前で、えんぴつを持ったまま、立っていた。

書けなかった。

その日は、一日、どこへ行くあてもなく、町を歩いた。

夕方、家にもどると、夫が、台所で、二人分の味噌汁を作っていた。

下手な味噌汁だった。

次の朝、わたしは、また、点を書いた。

だから、四十一年の点の中にも、一つだけ、抜けたところがある。

カレンダーは、年が変わるたびに、押し入れの箱にしまった。

四十一冊、たまっていた。

夫は、点のことを、知らなかったと思う。

カレンダーは、台所の、冷蔵庫の横にかけてあった。

夫は、日にちを見るときにしか、カレンダーを見ない。

小さな点など、目に入らなかっただろう。

美穂も、知らなかった。

五十年が、一本のまっすぐな線に見えていたのなら、それでいいと思っていた。

本当は、毎朝、一つずつ打った点だったけれど。

そのあいだに、出ていった二か月の、何も無いところもあったけれど。

第五章 まっすぐな線

金婚式の何日かあと、美穂が、家に来た。

押し入れの片づけを、手伝ってくれるという。

そして、カレンダーの箱を、見つけた。

美穂は、一冊ずつ、めくっていった。

毎日のところに、小さな点がある。

四十一年分。

お母さん、これ、何、と美穂は聞いた。

わたしは、少し迷ってから、本当のことを話した。

あの秋のこと。姉の家の二か月。毎朝の点。

美穂は、だまって、聞いていた。

それから、言った。

姉さんの家のこと、わたし、覚えてるよ。

七つだったもの。

お母さんが、夜、台所で泣いてたのも、覚えてる。

だからね、と美穂は言った。

わたし、ちゃんと知ってたの。まっすぐじゃなかったこと。

結婚してから、お母さんたちのこと、何度も考えたもの。

わたしも、夫と、出ていこうかと思った夜があったから。

途中に、何も無いところがあったこと。

それでも、わたしには、線に見えてたの。

毎朝、お母さんが台所にいて、お父さんがお茶を飲んでた。

それが、ずっと、続いてたから。

一本の線って、こういうことだったんだね。

美穂は、カレンダーの点を、指でなぞった。

一つ、一つ、とんとんと、指先で数えるように。

四十一冊の、一万五千の、小さな点。

一つずつは、ただの、えんぴつの点だった。

でも、並ぶと、たしかに、一本の線に見えた。

まっすぐな線も、点の並びだった。

毎朝、一つずつ、ここにいると決めた点の。

抜けたところがあっても、並びは、終わりまで、続いていた。

エピローグ

次の朝、わたしは、いつものように、台所のカレンダーの前に立った。

えんぴつで、点を一つ、書いた。

うしろで、夫が、お茶をいれていた。

あの日の茶わんと同じ模様の、四つ目の茶わんだった。

一つ目は夫が、二つ目と三つ目は、わたしが、手をすべらせて割った。

夫は、そのたびに、同じ模様をさがしてきた。

そのことも、美穂は、知らないだろう。

割れるたびに、同じ模様が、また台所にもどってきた。

それも、一つずつの点だったのかもしれない。

夫の側の、点だった。

その夜、美穂から、写真が一枚、送られてきた。

美穂の家の、台所のカレンダー。

今日のところに、小さな点が、一つ、書いてあった。

ソウルミッション358

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