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冬の地図

彫られたところにだけ、インクが残った

冬の地図

朗読で聴く

第一章 三年の冬

六十二になった。

アメリカの、シカゴという大きな町に住んでいる。

湖から吹く風が、冬になると、骨まで冷たい町だ。

今は、市のバスを運転している。あと一年で、定年だ。

娘が一人いる。エミリーという。三十になった。

わたしは、四十四から四十七までの三年、家が無かった。

勤めていた工場が閉まって、仕事を失った。

車の部品を作る工場で、二十年、同じ機械の前に立っていた。

ある月曜の朝、門に、鎖がかかっていた。

それだけだった。説明も、なかった。

次の仕事は、見つからなかった。

妻とは、その前に別れていた。家賃が払えなくなって、部屋を出た。

エミリーは、母親のところにいた。十二だった。

週末ごとに、わたしの部屋に泊まりに来ていた。

いっしょに、湖の岸を歩くのが好きな子だった。

わたしは、娘に、何も言わずに、姿を消した。

家の無い父親だと、知られたくなかった。

それから三年、シカゴの冬を、三回、外で越した。

第二章 覚えたこと

あの三年のことは、だれにも話していない。

話せるようなことは、何もないと思っていた。

ただ、生きのびるために、覚えたことがたくさんあった。

どの教会の地下室が、何曜日の何時に開くか。

どの橋の下が、風を防げるか。

どの図書館が、いちばん長く、暖房をつけているか。

どこで、温かいスープがもらえるか。

零下二十度の夜に、どこへ行けば、朝まで凍えずにすむか。

ぜんぶ、体で覚えた。

まちがえた夜は、本当に、死ぬかと思った。

一度、教会の時間を一時間まちがえて、雪の中で、戸の前に座っていた。

足の指の感覚が、なくなった。

通りがかった男が、こっちだ、と言って、橋の下の、風の来ない場所に連れて行ってくれた。

名前も知らない男だった。

次の冬、その男は、もういなかった。

三年目の冬に、町の外れの、夜だけ開く避難所に、たどりついた。

そこの所長が、仕事の口を、さがしてくれた。

バスの運転手の見習いだった。

わたしは、避難所を出る前の晩に、一枚の紙に、地図を書いた。

覚えたことを、ぜんぶ、書きこんだ。

教会の時間。橋の名前。図書館。スープの場所。

それを、避難所の台所の、たなに置いて、出ていった。

だれかの役に立つかもしれない、と、少しだけ思った。

でも、すぐに、忘れた。

忘れたかったのだと思う。

第三章 恥ずかしい三年

それから、十五年、バスを運転した。

部屋を借りて、少しずつ、暮らしを立て直した。

エミリーに、会いに行ったのは、出て五年たってからだった。

娘は、十七になっていた。

わたしは、遠くの町で働いていた、と言った。

うそだった。

あの三年のことは、言えなかった。

言ったら、娘は、わたしを恥ずかしく思うだろう。

わたしの人生の中で、あの三年は、えぐれた穴だった。

何もない、黒い穴。

ふたをして、その上を、なめらかに歩いてきた。

エミリーは、ときどき、聞いた。

お父さん、あのころ、どこにいたの。

わたしは、仕事で、とだけ答えた。

娘は、それ以上、聞かなかった。

聞かないでいてくれたのだと、今は思う。

エミリーは、大学を出て、市の福祉の仕事についた。

困っている人たちの相談を受ける仕事だという。

わたしは、えらいな、とだけ言った。

バスの窓からは、ときどき、毛布にくるまった人が見えた。

停留所のベンチで、朝を待っている人もいた。

わたしは、目をそらした。

見ると、あの穴の中が、見えてしまう気がした。

第四章 避難所の台所

この冬、エミリーから、電話があった。

お父さん、手伝ってほしいことがあるの。

町の外れの避難所に、ボランティアが足りないのだという。

わたしは、その名前を聞いて、受話器を落としそうになった。

あの避難所だった。

断る理由を、いくつも考えた。

でも、娘にたのまれたのは、はじめてだった。

夜、避難所に行った。

バスの終点から、さらに二十分歩いた。

十五年前、この道を、何度も、うつむいて歩いた。

今は、手袋をして、コートを着て、同じ道を歩いていた。

それでも、足が、少しふるえた。

建物は、十五年前と、ほとんど変わっていなかった。

台所で、スープの鍋を、かきまぜる係になった。

十五年前、わたしは、この台所の前に並ぶ側だった。

かじかんだ手で、紙のおわんを受け取った。

今は、その手に、スープを入れる側に立っていた。

ふしぎな気持ちだった。

新しく来た人に、所長が、一枚の紙を渡しているのが見えた。

コピーの、コピーの、コピーのような、うすい紙だった。

わたしは、それを、知っていた。

自分の字だった。

右に少しかたむく、くせのある字。

橋の名前の横に、風、と書いて、丸でかこんである。

十五年前の夜、台所のすみで、えんぴつをなめながら書いた字だった。

そのまわりに、知らないだれかの字が、いくつも書き足してあった。

第五章 彫られたところ

所長は、もう、別の人に代わっていた。

あれは何ですか、とわたしは聞いた。

冬の地図ですよ、と所長は言った。

ずっと前に、ここにいた人が、書いて置いていったんです。

どの教会がいつ開くか、どの橋の下が風をよけられるか。

だれも、こんなものは、作れません。

実際に、外で冬を越した人にしか、書けない。

十五年、ここに来た人みんなに、渡してきました。

毎年、少しずつ、書き足しながら。

これのおかげで、凍えずにすんだ人が、何人いるか分かりません。

書いた人に、お礼を言いたいんですけどね、と所長は言った。

名前も、書いてないんです。

うしろで、エミリーが、聞いていた。

わたしは、鍋のそばで、動けなかった。

あの三年は、黒い穴だと思っていた。

何もない、えぐれたところだと。

ちがった。

彫られたところにだけ、インクが残った。

なめらかに暮らした十五年からは、何も刷れなかった。

えぐれた三年の溝から、十五年分の冬の地図が、すられていた。

あの橋の下に連れて行ってくれた、名前も知らない男のことを思った。

あの男が教えてくれたことも、この紙の中に、入っている。

帰りは、エミリーの車で送ってもらった。運転しながら、エミリーが、言った。

お父さんの字だったね。

わたしは、だまって、うなずいた。

知ってたよ、とエミリーは言った。

お父さんが、家の無いところにいたこと。

ずっと前に、お母さんから、聞いてたの。

わたしが、この仕事を選んだのは、そのせいかもしれない。

お父さんが、どこかで凍えていないか、ずっと、考えてたから。

わたしは、助手席で、前を見ていた。

雪が、ライトの中を、ななめに流れていた。

エピローグ

次の週、わたしは、避難所の台所で、紙を一枚、広げた。

新しい冬の地図を、書くためだった。

十五年で、町は、少し変わった。

閉まった教会もある。新しくできた図書館もある。

わたしは、バスの窓から見てきた町を、一つずつ、書きこんだ。

となりで、エミリーが、それを見ていた。

いちばん下に、名前を書こうかと、少し迷った。

書かなかった。

かわりに、一行だけ、書き足した。

春は、来る。

ソウルミッション358

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