つっかえた朝
彫られたところにだけ、インクが残った

朗読で聴く
第一章 最初の音
四十五になった。
海に近い町の、古い団地に住んでいる。
夫と、十六の娘のあかりと、三人暮らしだ。
わたしは、六つのころから、どもる。
言葉の最初の音が、のどにつかえて、出てこない。
お、お、お、と、同じ音を何度もくり返してしまう。
自分の名前を言うのが、いちばん、むずかしかった。
小学校の出席のとき、はい、の一言が、出なかった。
クラスの男の子たちに、まねをされた。
国語の音読の順番が回ってくると、おなかが痛くなった。
先生は、ゆっくりでいいのよ、と言った。
ゆっくりでも、出ないものは、出なかった。
わたしは、だんだん、しゃべらない子になった。
しゃべらなければ、笑われない。
手を上げない。電話に出ない。お店で、注文をしない。
そうやって、自分の声を、少しずつ、削っていった。
中学の卒業式で、名前を呼ばれて、返事ができなかった。
体育館が、しんとした。
だれかが、小さく笑った。
あの音を、わたしは、今でも覚えている。
第二章 声のない仕事
高校を出て、町の印刷会社で、校正の仕事についた。
原稿の字のまちがいを、赤いペンで直す仕事だ。
一日中、だれとも話さなくていい。
わたしには、ちょうどいい仕事だった。
夫とは、会社の取引先で出会った。
口数の少ない人で、わたしがつっかえても、ただ、待っていた。
急がせなかった。言葉を、先に言ってしまうこともなかった。
それが、うれしかった。
結婚式のあいさつは、夫が一人でしてくれた。
わたしは、となりで、頭を下げていただけだった。
それでいいと、夫は言った。
二十九のとき、あかりが生まれた。
娘には、どもりがうつらないでほしいと、願った。
うつるものではないと、分かってはいた。
それでも、娘の前では、なるべく、しゃべらないようにした。
わたしの声を、聞かせたくなかった。
絵本の読み聞かせも、夫にまかせた。
わたしは、娘に、何も言ってやれない母親だった。
参観日にも、ほとんど行かなかった。
ほかのお母さんたちと、話をしなければならないのが、こわかった。
あかりは、何も言わなかった。
言わない子だったのか、言えない子だったのか、わたしには、分からなかった。
第三章 閉じた部屋
あかりが中学二年になった春、学校に行けなくなった。
朝になると、体が動かないのだという。
クラスの中で、何かあったらしい。
くわしいことは、話してくれなかった。
あかりは、部屋に閉じこもって、一日中、出てこなかった。
夫は、仕事の前に、戸の外から声をかけた。
あかり、無理しなくていいからな。
わたしは、何も言えなかった。
何か言おうとすると、最初の音が、のどにつかえた。
ちゃんとした母親なら、こんなとき、やさしい言葉をかけるのだろう。
わたしの言葉は、いつも、つっかえて、途中で切れる。
そんなものを聞かせても、娘を、もっと不安にさせるだけだと思った。
それでも、一つだけ、毎朝、言うことにした。
仕事に出る前に、あかりの部屋の戸の前に立った。
い、い、い、いってきます。
それから、いってらっしゃい、と言ってほしいなんて、思わなかった。
ただ、いってきますを、言った。
どうしても、つっかえた。
毎朝、何回も、くり返した。
二年、続けた。
返事は、一度も、なかった。
戸は、一度も、開かなかった。
それでも、言わない朝は、一日も、なかった。
言えるのは、それだけだったから。
会社に向かうバスの中で、いつも、自分の声が、いやになった。
もっとなめらかに言えたら、と思った。
第四章 春の朝
あかりは、高校に入る春、通信制の学校を選んだ。
週に二回だけ、町の教室に通う。
はじめの日、あかりは、玄関で、長いあいだ、くつをはいたまま立っていた。
わたしは、台所から、その背中を見ていた。
やがて、あかりは、だまって戸を開けて、出ていった。
その日、わたしは、いってらっしゃいを、言えなかった。
少しずつ、外に出られるようになった。
わたしは、あいかわらず、あまりしゃべらなかった。
この春、あかりが、駅前のパン屋で、アルバイトを始めた。
レジに立って、お客さんに、いらっしゃいませを言う仕事だ。
わたしには、とてもできない仕事だった。
夫は、いいじゃないか、と笑っていた。
わたしは、心配で、前の晩、眠れなかった。
あの子が、わたしのように、レジの前で声が出なくなったら、どうしよう。
どうして、そんな仕事を選んだのか、聞けなかった。
最初の日の朝、あかりは、玄関でくつをはいて、ふり返った。
いってきます。
それから、ちょっと止まって、わたしを見た。
わたしは、言おうとした。
い、い、い。
あかりは、だまって、待っていた。
夫と、同じ待ち方だった。
急がせなかった。
言葉を、先に言ってしまうこともなかった。
ただ、わたしの顔を見て、最後の音が出てくるのを、待っていた。
いってらっしゃい、と、やっと言えた。
あかりは、うなずいて、出ていった。
第五章 彫られたところ
その夜、あかりが、台所に来た。
わたしが洗いものをしている横に、立った。
お母さん、あのね、とあかりは言った。
学校に行けなかったころ、毎朝、いってきますって、言ってくれてたでしょう。
わたし、戸の向こうで、ずっと聞いてたんだよ。
お母さん、毎朝、つっかえてた。
何回も、何回も、同じ音をくり返して、それでも、最後まで言ってた。
わたし、あのころ、声が出なかったの。
だれかと話そうとすると、のどが、しまっちゃって。
でも、お母さんは、つっかえても、毎朝、言ってた。
あれを聞いてたら、つっかえてもいいんだって、思えたの。
出るまで、待てばいいんだって。
お父さんがね、言ってたの。
お母さんは、言いたいことがない人じゃない。
言うのに、ほかの人より時間がかかるだけだって。
だから、待ってればいいんだって。
わたし、それを、自分にもしてみたの。
のどがしまっても、出るまで、自分を待ってみた。
だから、パン屋さんにしたの。
いらっしゃいませ、つっかえても、言うんだ。
わたしは、水を出したまま、動けなかった。
つっかえる声を、娘に聞かせたくなかった。
削られた声だと、思っていた。
ちがった。
彫られたところにだけ、インクが残った。
なめらかに言えた言葉なら、あの子には、何も残らなかった。
つっかえた溝に、あの子の声が、溜まっていたのだ。
わたしは、ふり返って、あかりを見た。
あ、あ、ありがとう、と言った。
やっぱり、つっかえた。
あかりは、笑って、うん、と言った。
エピローグ
次の朝、わたしは、パン屋に行った。
レジに、あかりが立っていた。
い、いらっしゃいませ、とあかりは言った。
少しつっかえて、それから、ちゃんと最後まで言った。
わたしは、パンを一つ選んで、レジに置いた。
こ、これ、ください。
何十年ぶりかに、お店で、自分の声で注文をした。
うしろに並んだ人が、少し、首をかしげた。
それでも、わたしは、最後まで言った。
あかりは、待っていた。
わたしが最後まで言うのを、だまって、待っていた。
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