二本の指
彫られたところにだけ、インクが残った

朗読で聴く
第一章 二十の春
七十八になった。
川ぞいの小さな町で、一人で暮らしている。
妻は、七年前に亡くなった。
わたしの右手には、指が二本しかない。
親指と、人さし指だけだ。
二十の春に、勤めていた製材所で、機械にはさまれた。
中指から小指までの三本を、いっぺんになくした。
わたしは、大工になるつもりだった。
中学を出てから、ずっと、製材所で木のことを覚えてきた。
あと二年で、親方のところに弟子入りする話も決まっていた。
その話は、事故のあと、なくなった。
三本の指といっしょに、大工になる道も、削り取られた。
病院のベッドで、包帯の手を見ながら、何度も泣いた。
わたしの人生は、二十の春に、えぐられたのだと思った。
第二章 郵便の四十年
手が治ってから、町の郵便局で働きはじめた。
ほかに、雇ってくれるところがなかった。
はがきや手紙を仕分けて、自転車で配って回った。
二本の指で手紙をつまむのに、はじめは、ずいぶん時間がかかった。
何度も落とした。上司に、どなられた。
家に帰って、輪ゴムの束を、二本の指で何百回もつまむ練習をした。
ボタンのかけ方も、くつひもの結び方も、一から覚え直した。
くつひもは、ひと夏かかった。
指が三本足りない分を、手首の返しと、ひざで補うやり方を、自分で見つけた。
ひもの端をひざで押さえて、二本の指で輪を作る。
だれも教えてくれなかった。教えられる人が、どこにもいなかった。
はしを持てるようになったのは、秋の終わりだった。
一つずつ、自分のやり方を、作っていった。
人に見られないように、右手は、いつもポケットに入れていた。
握手を求められると、困った。
二十六のとき、局の事務をしていた妻と、結婚した。
妻は、わたしの右手を、一度も、気の毒そうに見なかった。
わたしが、ポケットから手を出さないのを、少し、さびしそうに見ていただけだった。
子どもは、できなかった。
それも、どこかで、手のせいのような気がしていた。
四十年、郵便を配った。
まじめに働いたと思う。
それでも、心のどこかで、ずっと思っていた。
これは、本当の人生ではない。
本当の人生は、二十の春に、三本の指といっしょに、なくなったのだと。
第三章 七つの男の子
五十のとき、配達の道すがらの家に、小さな男の子がいた。
名前は、ゆうき。七つだった。
ゆうきは、その年の冬に、交通事故にあった。
左手の指を、四本、なくした。
残ったのは、親指だけだった。
春になって、ゆうきは、家の前の階段に、一人で座っていた。
学校に、行かなくなったのだという。
くつひもが、結べないから。
給食のときに、はしが、持てないから。
みんなに、見られるから。
ゆうきの母親が、郵便を受け取りながら、泣きそうな顔で、そう言った。
わたしは、自転車を止めた。
なぜそうしたのか、自分でも、分からない。
階段に座っているゆうきの背中が、病院のベッドの上の、二十のわたしに見えたのかもしれない。
右手を、ポケットから出した。
三十年、人前でほとんど出したことのない手だった。
ゆうきの前にしゃがんで、二本の指を、見せた。
おじさんも、ほら。
ゆうきは、目を丸くした。
わたしは、ゆうきのくつを指さして、言った。
くつひもはな、こうやるんだ。
二本の指で、ゆっくり、結んでみせた。
第四章 夏休み
その夏、配達の帰りに、毎日、ゆうきの家に寄った。
くつひもの結び方。ボタンのかけ方。
はしの代わりに、スプーンの持ち方を、少し変えるやり方。
どれも、わたしが二十の夏と秋に、一人で作ったやり方だった。
手が足りない分を、どこで、どう補うか。
輪ゴムを、何百回つまんだか。
何度落として、どこでどなられたか。
そんな話まで、ゆうきに、した。
だれにも、話したことのない話だった。
妻にさえ、くわしくは、話していなかった。
それなのに、七つの子には、すらすらと話せた。
この子には、聞く理由があったからだと思う。
ゆうきは、はじめは、なかなか、うまくいかなかった。
泣いて、くつを投げたこともあった。
わたしは、それを拾って、もう一回、と言った。
夏の終わりに、ゆうきは、自分でくつひもを結んだ。
そして、二学期から、学校に行った。
それから、ゆうきの家は、引っこしていった。
年賀状が、何年か来て、それも、いつのまにか来なくなった。
わたしは、それで、いいと思っていた。
ただの、ひと夏のことだった。
その夏のことを、妻は、ずっと覚えていた。
あの子が来てから、あなた、手をポケットから出すようになったわね。
亡くなる少し前に、そう言われた。
わたしは、そうだったか、とだけ答えた。
第五章 彫られたところ
この春、知らない番号から、電話があった。
ゆうきです、と、低い大人の声が言った。
ゆうきは、三十五になっていた。
県の病院で、作業療法士をしているという。
手や体に、けがや障がいのある人が、暮らしの動きを取りもどす手伝いをする仕事だ。
一度、病院に来てもらえませんか、とゆうきは言った。
わたしは、バスに乗って、出かけていった。
病院は、県庁のある大きな町にあった。
バスの窓から、ゆうきの家があったあたりを、ぼんやりと見た。
あの家は、もう、空き地になっていた。
ゆうきの部屋には、子どもたちが、何人も通ってきていた。
指のない子。手の動かない子。
ゆうきは、左手の親指だけで、その子たちに、くつひもを教えていた。
わたしが、あの夏に教えたのと、同じやり方だった。
ゆうきが、子どもたちに、わたしを紹介した。
この人が、ぼくの先生だよ。
それから、わたしに言った。
ぼくが教えているやり方は、ぜんぶ、おじさんの手から来ているんです。
おじさんの、二本の指から。
十年で、二百人以上の子に、教えました。
ノートに、全部、書き残してあるんです。
輪ゴムを何百回つまむところから、始めるんですよ。
子どもたちには、つまらないって、言われますけど。
ゆうきは、少し笑った。
教科書には、どこにも載っていないやり方です。
なくした指の分を、どう補うかなんて、なくした人にしか、分からないから。
わたしは、ポケットに手を入れようとして、やめた。
二十の春に、えぐられたと思っていた。
削り取られた三本の指の分だけ、わたしの人生は、なくなったのだと。
ちがった。
彫られたところにだけ、インクが残った。
えぐられたところから、わたしの刷ったものが、二百人に渡っていた。
なめらかなままの手だったら、何も残らなかった。
大工になっていたら、あの夏、自転車を止めることもなかっただろう。
削られた溝にだけ、インクが入っていたのだ。
エピローグ
帰りぎわに、小さな女の子が、わたしの前に来た。
右手に、指が、二本しかなかった。
女の子は、わたしの右手を、じっと見た。
それから、自分の右手を、わたしの右手に重ねた。
二本と、二本。
わたしは、その手を、ゆっくり握った。
五十八年ぶりに、人と、握手をした気がした。
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