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郵便受けの赤い旗

いちばん手前に、置いてくれていた

郵便受けの赤い旗

朗読で聴く

第一章 冬の谷

七十二になった。

アメリカの北の、バーモントの小さな町に住んでいる。

森と、雪と、細い道しかないところだ。

冬は、半年近く続く。空も、道も、木も、灰色になる。

夫のトムは、八年前に、六十四で亡くなった。

朝、雪かきをしていて、倒れた。心臓だった。

子どもはいない。

トムは、町の小さな金物屋で、四十年働いた人だった。

朝は、わたしより先に起きて、台所のカーテンを開けた。

今日はいい天気だ、と毎朝言った。雪の朝でも、言った。

カーテンを開けるのは、いつも、トムの仕事だった。

家は、道に面した、古い木の家だ。

台所の窓から、道の向こうの家が見える。

そこには、ウォルトという、年取った男の人が住んでいた。

奥さんを、ずっと前に亡くしていて、一人暮らしだった。

道の向こうとこちらで、三十年、近所だった。

会えば、あいさつをするくらいの仲だった。

トムとウォルトは、ときどき、道ばたで立ち話をしていた。

雪かきの機械を、貸し借りしていたこともある。

わたしは、ウォルトと、ゆっくり話したことはなかった。

第二章 閉めたカーテン

トムがいなくなってから、わたしは、何もしたくなくなった。

朝、起きても、台所のカーテンを開けなかった。

開けても、見えるのは、灰色の雪だけだったから。

何日も、カーテンを閉めたまま、暮らした。

電話が鳴っても、出なかった。

食事も、パンを少しかじるくらいだった。

このまま、春が来なくてもいい、と思っていた。

カーテンを開ける人が、もう、いなかった。

自分で開けるということを、思いつきもしなかった。

家の中は、昼でも、うす暗かった。

ある朝、なんとなく、カーテンを少しだけ開けた。

道の向こうに、ウォルトの郵便受けが見えた。

アメリカの田舎の郵便受けには、赤い旗がついている。

出す手紙を入れたら、旗を立てておく。

すると、配達の人が、取っていってくれる。

その朝、ウォルトの郵便受けの赤い旗が、立っていた。

灰色の景色の中で、そこだけが、まっかだった。

わたしは、しばらく、それを見ていた。

次の朝も、赤い旗は立っていた。

その次の朝も。

第三章 毎朝の赤

それから、毎朝、赤い旗が立っていた。

雪の朝も、雨の朝も、一日も休まなかった。

日曜には、配達はない。それでも、旗は立っていた。

わたしは、朝、目がさめると、まずカーテンを開けるようになった。

赤い旗を見て、ああ、立っている、と思った。

それから、コーヒーをいれた。

それだけのことだった。

カーテンを開ける理由が、一つだけ、できた。

理由が一つあると、人は、起き上がれるものらしい。

コーヒーを飲みながら、窓の外の赤を見ていると、少しずつ、ほかのものも目に入ってきた。

雪の上の鳥の足あと。屋根からたれるつらら。遠くの森の、黒い木。

ウォルトは、ずいぶん手紙を書く人なのだと思った。

遠くに、たくさん、家族がいるのだろうと。

年寄りの、ひまつぶしなのだろうと。

春になると、わたしは、少しずつ、外に出るようになった。

庭の手入れを、また始めた。

教会のバザーに、パイを焼いて持っていった。

ウォルトとは、道で会うと、相変わらず、あいさつをするだけだった。

赤い旗のことは、一度も、聞かなかった。

一度だけ、朝早くに、ウォルトが郵便受けの前に立っているのを見た。

厚いコートを着て、旗を立てて、それから、こちらの方を見ていた。

わたしがカーテンを開けると、ウォルトは、くるりと向きを変えて、家に入っていった。

寒いのに、ご苦労なことだと思った。

そうして、八年がたった。

第四章 立たなかった旗

今年の春のある朝、赤い旗が、立っていなかった。

わたしは、カーテンの前で、しばらく、立ちつくした。

次の朝も、立っていなかった。

三日目に、道の向こうに、救急車が来ているのを見た。

ウォルトは、八十で亡くなった。

眠ったまま、だったそうだ。

葬式は、町の小さな教会であった。

集まった人は、多くなかった。

わたしは、いちばん後ろの席で、トムのときのことを思い出していた。

あの冬、わたしは、だれの葬式にも行けなかった。

葬式のあと、ウォルトの娘のカレンが、わたしの家に来た。

五十二で、ボストンに住んでいる人だった。

ウォルトに似て、背が高く、声の低い人だった。

父がお世話になりました、とカレンは言った。

あいさつくらいしかしていないのに、と思いながら、わたしは、うなずいた。

カレンは、紙の箱を、一つ、かかえていた。

これを、あなたに見せたくて、と言った。

第五章 いちばん手前

箱の中には、はがきが、ぎっしり入っていた。

どれも、何も書いていない、白いはがきだった。

あて名だけが、書いてあった。

ウォルトの家の住所。ウォルト自身にあてた、はがきだった。

父は、毎朝、これを、自分あてに出していたんです、とカレンは言った。

八年間、毎日。三千枚近くあります。

郵便受けに入れて、赤い旗を立てるために。

あなたのご主人が亡くなったあと、父は、気がついたそうです。

あなたの台所のカーテンが、何日も、開かないことに。

父は、言っていました。

あの人の窓から、いちばん最初に見えるのは、うちの郵便受けだ。

だから、そこに、毎朝、赤いのを一つ、立てておく。

カーテンが開いたら、あの人は、今日も、だいじょうぶだ。

旗を立てて、それから、うちの窓から、あなたの窓を見ていたんです。

カーテンが開くまで。

母が亡くなったとき、父も、一年、カーテンを開けなかったんです。

そのとき、毎朝、うちの玄関をたたいてくれた人がいたそうです。

道の向こうの、トムさんでした。

今日はいい天気だ、とだけ言って、帰っていったって。

父は、その借りを、返していたんだと思います。

わたしは、箱の中のはがきを、一枚、手に取った。

白くて、何も書いていなかった。

年寄りの、ひまつぶしだと思っていた。

ちがった。

ウォルトは、わたしの窓の、いちばん手前に、赤を一つ、置いてくれていた。

灰色の冬の中で、わたしの目が、最初に見つけるところに。

八年、毎朝。

わたしは、自分で、立ち直ったのだと思っていた。

時間が、トムのいないことに、なれさせてくれたのだと。

そうではなかった。

毎朝、カーテンを開ける理由を、道の向こうから、だれかが立ててくれていたのだ。

エピローグ

次の朝、わたしは、自分の郵便受けの前に立った。

白いはがきを一枚、入れた。

あて名は、ボストンの、カレンの住所にした。

何も書かなかった。

書くことが、たくさんありすぎたから。

カレンには、それで、分かるだろうと思った。

それから、赤い旗を、立てた。

道の向こうの、ウォルトの家の窓を見た。

カーテンは、閉まったままだった。

それでも、わたしは、しばらく、旗のとなりに立っていた。

トムがしてくれたことが、ウォルトに渡り、ウォルトから、わたしに渡った。

今度は、わたしの番だと思った。

灰色の道の上で、わたしの郵便受けの赤だけが、明るかった。

ソウルミッション358

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