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黄色いセーター

いちばん手前に、置いてくれていた

黄色いセーター

朗読で聴く

第一章 八つの発表会

四十二になった。

城のある町で、子どもたちにピアノを教えている。

生徒は二十人ほど。自分の家の、小さな部屋が教室だ。

ピアノは、母が、近所のおさがりをもらってきたものだった。

家は、ゆたかではなかった。

父は工場で働き、母はパートに出ていた。

レッスンのお金を、母が、毎月、封筒に入れてくれた。

わたしは、毎日、学校から帰ると、ピアノの前に座った。

家の中で弾くのは、少しも、こわくなかった。

わたしは、人前に出るのが、昔から苦手だった。

八つのとき、はじめての発表会があった。

町の小さなホールで、出番は、五番目だった。

ステージに出て、客席を見た。

知らない顔が、ずらりと、こちらを向いていた。

頭の中が、まっ白になった。

指が、一つも、動かなかった。

しばらく、ピアノの前に座ったまま、何も弾けなかった。

先生が、そでから出てきて、わたしを連れて帰った。

楽屋で、わたしは、ずっと泣いていた。

母は、仕事で、来られなかった。

帰り道、兄は、わたしの手を引いて、だまって歩いた。

知ってる顔が一つでも見えたら、弾けたのに、と言ったらしい。

自分では、覚えていない。

そのとき、いっしょに来ていたのが、五つ年上の兄だった。

兄は、十三だった。

黄色いセーターを着ていた。

第二章 いちばん前の席

次の発表会から、兄は、いつも、いちばん前の席にいた。

客席のまん中の、いちばん前。

黄色いセーターを着て、腕を組んで、座っていた。

ステージに出ると、まず、それが目に入った。

暗い客席の中で、そこだけが、ぱっと黄色かった。

わたしは、そのきいろだけを見て、おじぎをした。

それから、ピアノに向かって、弾いた。

弾けた。

その日の帰り道、兄は、やっぱり、何も言わなかった。

わたしも、何も言わなかった。

ただ、八つのときより、少しだけ、手をにぎる力が強かった気がする。

中学でも、高校でも、音大でも、兄はいちばん前にいた。

コンクールの日も、卒業演奏の日も、いた。

いつも、同じ席に、同じ黄色いセーターで。

音大の試験の日は、さすがに、客席に入れなかった。

それでも、試験会場の門の前に、黄色いセーターが立っていた。

わたしは、門をくぐるときに、それを見た。

それで、弾けた。

わたしは、正直に言うと、少し恥ずかしかった。

友だちに、あの黄色い人だれ、と聞かれた。

兄です、と言うと、みんな、笑った。

いい年をして、毎回いちばん前なんて、目立ちたがりなのだと思っていた。

兄は、昔から、前の方が好きな人なのだと。

第三章 黄色いおじさん

兄は、町の役場で働いている。

結婚して、子どもが二人いる。

口数の少ない人で、わたしとも、あまり話さない。

子どものころから、そうだった。

わたしが泣いていても、となりに座っているだけで、何も言わない兄だった。

それが、わたしには、少し、つめたく見えた。

会っても、元気か、と聞くくらいだ。

ピアノのことも、ほめたことは、一度もない。

演奏会のあと、楽屋に来ることもなかった。

気がつくと、もう、帰っていた。

わたしが教室を開いてからは、生徒たちの発表会に、毎年、来てくれた。

やっぱり、いちばん前の席に、黄色いセーターで。

生徒たちは、黄色いおじさん、と呼んでいた。

あのおじさんがいると、なんだか、弾きやすい、と言う子もいた。

わたしは、笑って、ただの兄よ、と答えていた。

わたし自身は、今でも、人前で弾くのが苦手だ。

教えるのは、平気なのに。

だから、生徒たちの気持ちは、よく分かる。

発表会の前の日には、いつも、同じことを言う。

こわくなったら、客席で、知ってる顔を一つ、さがしなさい。

そう言いながら、それがだれの言葉なのか、考えたこともなかった。

今年の春、兄が、階段から落ちて、足の骨を折った。

発表会の、一週間前だった。

電話で、行けなくて、すまん、と兄は言った。

すまん、なんて、言われたのは、はじめてだった。

第四章 空いた席

発表会の日、わたしは、楽屋で、そわそわしていた。

自分が弾くわけではない。

弾くのは、生徒たちだ。

それなのに、手が冷たくて、何度も、指をもんだ。

開演の前に、そでから、客席をのぞいた。

いちばん前の、まん中の席。

そこに、きいろが、あった。

兄ではなかった。

兄のおくさんの、さち子さんだった。

兄の黄色いセーターを、着ていた。

少し大きすぎて、そでを、二回、折っていた。

さち子さんは、わたしに気づいて、小さく手をふった。

わたしは、そでの暗がりで、しばらく、動けなかった。

発表会は、いつものように始まった。

三番目に出た、小学二年の女の子が、ピアノの前で、かたまった。

八つのときのわたしと、同じ顔をしていた。

女の子は、客席を見まわして、いちばん前のきいろで、目を止めた。

それから、小さく息をすって、弾きはじめた。

第五章 いちばん手前

発表会のあとで、さち子さんと、ロビーで話した。

あの人に、たのまれたの、とさち子さんは言った。

あの席だけは、空けないでくれって。

黄色いのを着て、まん中に座ってくれって。

さち子さんは、少し笑った。

あの人ね、発表会の日は、いつも、朝の五時に起きてたのよ。

会場の前に、一番に並ぶの。いちばん前のまん中を、取るために。

仕事の日は、半日休みを取ってた。

コンクールのときは、前の晩から、並んだこともあった。

知ってる顔が一つ見えたら、ひけるって、あなたが言ったんでしょう。

あの人、それを、三十四年、ずっと守ってたの。

黄色いセーターも、四枚目なのよ。

すり切れるたびに、同じ色のを、探して買ってた。

暗いところでも、いちばん目に入る色だからって。

わたしは、何も言えなかった。

目立ちたがりだと思っていた。

前の方が好きな人なのだと思っていた。

ちがった。

兄は、自分を、わたしのいちばん手前に、置いてくれていた。

暗い客席の中で、わたしの目が、最初に見つけるところに。

三十四年、一度も、空けずに。

わたしは、三十四年、自分の足で舞台に出ていると思っていた。

こわがりなりに、少しずつ、なれてきたのだと思っていた。

なれたのではなかった。

いつも、最初に見つけるきいろが、そこにあっただけだった。

エピローグ

その夜、わたしは、兄の病院に行った。

兄は、ベッドの上で、ギプスの足を、少し持ち上げてみせた。

まくらもとに、子どもたちの描いた絵が、はってあった。

黄色いクレヨンで、大きな丸が描いてあった。

パパのセーター、と、下に書いてあった。

どうだった、と兄は聞いた。

みんな、弾けたよ、と答えた。

そうか、と兄は言った。

わたしは、かばんから、包みを出した。

帰りに、駅前の店で、見つけたものだった。

黄色いセーター。五枚目。

店の中で、いちばん明るいきいろを、さがした。

暗いところでも、いちばん目に入る色を。

兄は、包みをあけて、しばらく、だまっていた。

来年も、いちばん前だね、とわたしは言った。

兄は、窓の方を向いて、ああ、とだけ言った。

ソウルミッション358

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