朝の一つ
いちばん手前に、置いてくれていた

朗読で聴く
第一章 つぶれた会社
七十六になった。
海から少しはなれた町の、古い家に住んでいる。
妻の道子は、去年の秋に、七十三で亡くなった。
娘が一人いて、となりの市に嫁いでいる。
わたしは、三十年、小さな印刷の会社をやっていた。
社員は八人。チラシや、町内会の名簿や、年賀状を刷った。
道子は、事務と、配達を手伝ってくれた。
朝、刷り上がったチラシの束を、自転車のかごに積んで、町を回った。
インクのにおいのする家だった。
年の暮れになると、夜中まで機械が止まらなかった。
それでも、自分の手で、町の紙を刷っているのが、うれしかった。
五十のとき、その会社が、つぶれた。
大きな取引先が、急に、仕事を切ってきた。
借金を返すために、家のほかは、ぜんぶ売った。
八人の社員には、一人ずつ、頭を下げた。
最後の日、機械が運び出されるのを、工場のすみで見ていた。
それから、わたしは、何もできなくなった。
第二章 灰色の十年
朝、目がさめても、起き上がれなかった。
起きても、居間の椅子に座ったまま、一日がすぎた。
テレビをつけても、何も見ていなかった。
新聞も、読めなかった。字が、ただの黒い点に見えた。
医者に行くと、うつ病だと言われた。
薬を飲んでも、すぐには、よくならなかった。
あのころのことは、ほとんど、覚えていない。
思い出そうとすると、灰色の、うすい水のような景色しか出てこない。
窓の外も、壁も、たたみも、ぜんぶ、同じ色だった。
道子は、近くのスーパーで、レジの仕事を始めた。
朝早く出て、夕方に帰ってきた。
娘は、まだ中学生だった。
娘の卒業式にも、わたしは、行かなかった。
行けなかった、と言うのが、本当だと思う。
朝、道子が、ネクタイを出してくれた。
わたしは、それを見たまま、椅子から立てなかった。
道子は、何も言わずに、ネクタイをしまって、一人で出かけていった。
帰ってきた道子は、娘の写真を、わたしの前に置いただけだった。
わたしは、父親らしいことを、何一つ、しなかった。
そういう十年だった。
六十をすぎたころ、少しずつ、外に出られるようになった。
近所の公民館で、印刷の手伝いを頼まれた。
古い機械をさわると、手が、まだ覚えていた。
第三章 食卓のみかん
去年、道子が入院して、三か月で亡くなった。
すい臓のがんだった。見つかったときには、もう、おそかった。
葬式がすんで、家に一人になった。
朝、居間の椅子に座って、ふと、食卓を見た。
何も、のっていなかった。
それが、妙に、おかしな感じがした。
何かが、足りない。でも、何が足りないのか、分からなかった。
三日目の朝に、やっと、気がついた。
みかんだった。
わたしの椅子の、いちばん近くの、食卓のはし。
そこに、いつも、何か一つ、置いてあった。
冬は、みかん。夏は、赤いトマト。秋は、かき。
春は、いちごが、小さな皿に、一つだけ、のっていた。
いつからだったのか、思い出せなかった。
ずっと、そこにあったので、気にしたことがなかった。
会社が元気だったころは、なかったような気がする。
あのころは、朝飯も、立ったまま食べていた。
食卓のはしを見る暇など、なかった。
とすると、あれは、灰色の十年のころからだろうか。
道子が、ただ、そこに置くくせがあるのだと思っていた。
次の朝、わたしは、冷蔵庫をあけてみた。
野菜室は、からっぽだった。道子が入院してから、三か月たっていた。
わたしは、近所の店で、かきを一つ買ってきて、食卓のはしに置いてみた。
なぜそうしたのかは、自分でも、分からなかった。
第四章 台所のノート
春になって、娘が、家の片づけに来てくれた。
台所の引き出しから、うすいノートが、何冊も出てきた。
道子の、家計簿だった。
娘が、ページをめくって、手を止めた。
お父さん、これ、と言った。
家計簿の、毎日のらんの下に、小さな字で、何か書いてあった。
みかん。目を上げた。
トマト。手に取った。
かき。何も言わない。
いちご。少し、笑った。
みかん。また、見ているだけ。
トマト。今日は、だめ。
かき。窓をあけた。
毎日、一行ずつ。十年分、あった。
会社がつぶれた年の、秋から始まっていた。
最後の日づけは、わたしが公民館に通い始めた年の、春だった。
いちご。自分で、もう一つ、取った。
その下に、もう、何も書いてなかった。
書くのは、やめたのだろう。
でも、置くのは、やめなかった。
それから十六年、道子が入院する前の日まで、食卓のはしには、何か一つがあった。
わたしは、それを、毎朝、なんとなく食べていた。
ありがとうと、一度も、言わなかった。
最初のページの上に、一行だけ、ちがうことが書いてあった。
あの人が、目を上げたら、最初に見えるところに、色を一つ。
第五章 いちばん手前
娘が、言った。
お母さんね、あのころ、わたしに言ったことがあるの。
お父さんの見ているものは、みんな、灰色なんだって。
だから、毎朝、一つだけ、色のあるものを置くの。
お父さんの目の、いちばん近くに。
いつか、それに、手をのばす日が来るからって。
スーパーで、いちばん色のいいのを、一つだけ買ってきてたんだよ。
レジの仕事のあとで、売り場を、ぐるっと回って。
高い日もあったよ。お母さん、自分のおやつは、買わなかったもの。
わたしが、どうしてお父さんにだけ、って聞いたら、お母さん、笑ってた。
あの人は、目の前にあるものしか、見られないの。
だったら、目の前を、少しだけ明るくしておけばいいでしょって。
わたしは、ノートを持ったまま、動けなかった。
思い出した。
灰色の十年の中で、色のついた景色が、一つだけあった。
朝の食卓の、みかんの、だいだい色だった。
ある冬の朝、わたしは、そのみかんに、手をのばした。
皮をむいて、一つぶ、口に入れた。
すっぱかった。
その日、わたしは、ひさしぶりに、外を歩いた。
あの朝から、少しずつ、起き上がれるようになったのだ。
自分で起き上がったのだと、ずっと、思っていた。
薬が効いたのだと思っていた。
時間がたったからだと思っていた。
公民館の機械のおかげだと思っていた。
どれも、本当なのだろう。
ちがった。
いちばん手前に、置いてくれていた。
わたしが目を上げる日を、十年、毎朝、待ちながら。
エピローグ
次の朝、わたしは、八百屋に行った。
店先で、いちばん色のいいトマトを、一つだけ選んだ。
家に帰って、食卓のはしに、置いた。
道子がいつも座っていた椅子の、いちばん近くのところに。
小さな皿に、トマトが一つ。
居間の中で、そこだけが、赤かった。
わたしは、自分の椅子に座って、しばらく、それを見ていた。
灰色の十年のあいだ、道子は、毎朝、この景色を作っていたのだ。
わたしが見ない日も、見ない日も、見ない日も。
それでも、次の朝には、また一つ、置いた。
目の前を、少しだけ明るくしておけばいい。
そう言って笑った道子の声が、聞こえた気がした。
それから、道子の写真を、トマトのとなりに置いた。
おはよう、と言った。
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