月に一度の椅子
黒一色しか、持っていなかった

朗読で聴く
第一章 はさみ
五十一になった。
川のある小さな町で、美容室を一人でやっている。
椅子が二つだけの、小さな店だ。
二十のときから、はさみを持ってきた。
口べたなので、お客さんとは、あまり話さない。
それでも、来てくれる人は、来てくれる。
だまって切ってくれるから楽だ、と言うおばあさんもいる。
はさみは、母から習った。
母も、この町で、小さな店をやっていた。
母は、よくしゃべる人だった。
お客さんと笑いながら、手だけは、少しも止まらなかった。
わたしは、母のようには、しゃべれなかった。
手を動かしながら話すと、どちらかが、おろそかになった。
だから、手の方だけを、選んだ。
娘が一人いる。名前は、ひかり。
ひかりが六つのとき、夫と別れた。
それから、ひかりと二人で、店の二階に住んだ。
朝から夜まで、店に立った。
ひかりは、学校から帰ると、二階で一人で宿題をした。
階段の下から、ただいま、という声だけが聞こえた。
運動会も、参観日も、ほとんど行けなかった。
土曜も日曜も、店は開けていたから。
ほかの母親のように、話を聞いてやることもできなかった。
何を話せばいいのか、分からなかった。
わたしが持っているのは、はさみだけだった。
第二章 だまった娘
ひかりは、十四になって、口をきかなくなった。
朝、おはようと言っても、返事がない。
夕飯も、自分の分を持って、部屋に上がってしまう。
学校で何があったのか、わたしには、分からなかった。
聞こうとすると、ひかりは戸をしめた。
わたしは、戸の前で、何も言えずに立っていた。
秋に、学校から電話があった。
ひかりさんが、このところ、休みがちです、と先生は言った。
わたしは、すみません、としか言えなかった。
店には、パーマの途中のお客さんが、待っていた。
電話を切って、店にもどって、またはさみを持った。
手は動いたが、何を切っているのか、よく分からなかった。
その晩、戸をたたいたが、返事はなかった。
言葉が、出てこなかった。
ちゃんとした母親なら、ここで、何か言えるのだろう。
だきしめて、話を聞いてやれるのだろう。
わたしにできたのは、月に一度、娘の髪を切ることだけだった。
店の休みの、月曜の夜。
ひかりは、何も言わずに、下りてきた。
何も言わずに、店の椅子に座った。
わたしも、何も言わずに、ケープをかけた。
はさみの音だけが、店にひびいた。
三十分ほどで、終わった。
ひかりは、鏡も見ずに、二階に上がっていった。
それが、四年、続いた。
第三章 鏡の中
四年のあいだ、ひかりとは、ほとんど話さなかった。
話したのは、前髪、どうする、と、うん、くらいだった。
わたしは、鏡の中のひかりの顔を見ていた。
目の下が、黒くなっている月があった。
つめを、ぜんぶ、かんでしまっている月があった。
一度だけ、髪の中に、小さなはげを見つけた。
ストレスで、ぬけたのだと思った。
何があったの、と聞きたかった。
でも、聞けば、ひかりは椅子を立つだろうと思った。
わたしは、そこが目立たないように、まわりの髪を、少し長く残した。
それしか、できなかった。
次の月、はげは、少し小さくなっていた。
その次の月には、もう、分からなくなっていた。
ひかりの髪は、母に似て、細くて、やわらかかった。
ぬれると、指のあいだから、すぐにこぼれた。
わたしは、その髪を、いつもより、ゆっくり切った。
早く終わってしまうと、ひかりは、すぐに二階に上がってしまうから。
三十分が、四十分になった月もあった。
ひかりは、何も言わずに、座っていた。
わたしは、何も言わなかった。
ひかりも、何も言わなかった。
十八の春、ひかりは、東京の専門学校に行くと言った。
何の学校かは、聞かなかった。
ひかりも、言わなかった。
駅で、ひかりは、元気で、とだけ言った。
わたしも、元気で、とだけ言った。
はさみしか持っていない母親だった、と思った。
第四章 九年
それから、九年がたった。
ひかりは、正月とお盆に、少しだけ帰ってきた。
帰ってきても、髪は、もう、切らせてくれなかった。
東京で、ちゃんとした店で、切っているのだろうと思った。
わたしの店で切った髪とは、形が、まるでちがっていた。
はさみが、あの子に渡せる、ただ一つのものだった。
それも、もう、要らなくなったのだと思った。
月曜の夜になると、今でも、店の電気をつけた。
だれも座らない椅子を、ふいた。
床に落ちた髪を、ほうきで集めた。
昼のお客さんの髪で、ひかりの髪ではなかった。
はさみを研ぎながら、ときどき、階段の方を見た。
もちろん、だれも、下りてこなかった。
この春、ひかりから、電話があった。
結婚することになった、と言った。
相手は、東京の、同じ店の人だという。
それでね、とひかりは言った。
式の前の日に、そっちに帰る。
お母さんの店で、髪を切ってほしいの。
わたしは、受話器を持ったまま、しばらく、何も言えなかった。
第五章 一色で、全部
式の前の日、月曜の夜だった。
ひかりは、店に下りてきて、昔と同じ椅子に座った。
わたしは、昔と同じように、ケープをかけた。
はさみを入れようとしたとき、ひかりが、鏡の中で言った。
わたしね、東京で、美容師になったの。
わたしは、手を止めた。
知らなかった。九年、一度も、聞かなかった。
中学のとき、わたし、学校に行けない時期があったの。
だれとも話したくなかった。お母さんとも。
でも、月に一度、あの椅子に座るのだけは、やめられなかった。
お母さん、だまって、髪をさわってくれたでしょう。
はげができたときも、何も聞かずに、かくしてくれた。
鏡で見て、分かってたよ。
あれが、お母さんの、だいじょうぶ、だった。
言葉より、ずっと、よく分かった。
あの三十分があったから、わたしは、あの四年を、こえられたの。
だから、同じ仕事を、えらんだんだよ。
東京の店にもね、だれとも話したくない顔で来る子がいるの。
そういう子には、わたし、何も聞かない。
だまって、ていねいに、髪をさわる。
何か月かすると、その子が、自分から話しだすことがあるの。
お母さんのやり方だよ、それ。
わたし、お母さんの手しか、お手本にしてないんだから。
鏡の中で、ひかりは、少し笑っていた。
わたしは、はさみを持ったまま、泣いた。
はさみしか、持っていない母親だと思っていた。
黒一色しか、持っていなかった。
その一色で、あの子に要るものは、ぜんぶ、刷れていた。
エピローグ
ひかりの髪は、昔と同じように、切った。
前髪、どうする、と聞いた。
うん、とひかりは言って、二人で笑った。
切り終わると、ひかりが、立ち上がった。
今度は、お母さんの番。
ひかりは、わたしを、店の椅子に座らせた。
自分のかばんから、はさみを出した。
わたしが、二十のときに母からもらったのと、よく似た形だった。
鏡の中で、ひかりの手が、わたしの髪をそっと持ち上げた。
その手の持ち方を、わたしは知っていた。
わたしの髪に、はさみが入った。
二人とも、何も言わなかった。
はさみの音だけが、店にひびいていた。
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