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ひらがなの手紙

黒一色しか、持っていなかった

ひらがなの手紙

朗読で聴く

第一章 書けなかった字

八十になった。

山あいの小さな町で、一人で暮らしている。

夫は、十年前に亡くなった。

わたしは、子どものころから、漢字が覚えられなかった。

何度書いても、形がくずれる。

さっき書いた字が、次に書くと、もう別の字になっている。

先生には、なまけものと言われた。

居残りで、同じ字を百回書かされた。

百回書いても、次の朝には、一つも残っていなかった。

小学校の六年で、ちゃんと書けるようになったのは、ひらがなだけだった。

カタカナも、半分は、あやしかった。

大人になってからも、字を書くのがこわかった。

役場の書類は、いつも夫に書いてもらった。

回覧板に名前を書くときは、手がふるえた。

ひらがなで名前を書くと、となりの家の人が、少し笑った気がした。

だから、人の前では、字を書かなかった。

書かないで済むように、いつも、先に誰かにたのんだ。

夫は、何も言わずに、書いてくれた。

あんたは、ほかのことができるから、いいんだ、と言った。

ほかのことが何なのか、わたしには、分からなかった。

畑の野菜を、近所に配ることだろうか。

夫のシャツのボタンを、つけ直すことだろうか。

どれも、字に比べたら、小さなことに思えた。

字の書ける人は、どこへでも行ける。

字の書けないわたしは、この町の、この家の中にいるしかないと思っていた。

第二章 おなじ子

息子が一人いる。誠という。

二十五のときに生まれた。

誠が小学校に上がって、最初の夏に、先生に呼ばれた。

誠くんは、教科書が読めません、と言われた。

字を、いつまでも、覚えられないんです。

お母さんは、どうでしたか、と聞かれた。

わたしは、下を向いた。

同じです、とは、言えなかった。

帰り道、誠の手を引きながら、思った。

わたしのせいだ。

わたしの、できないところが、この子にうつったんだ。

夜、誠は、宿題のノートの前で、泣いていた。

字が、にげていくんだよ、と言った。

わたしにも、そう見えていた。

教えてやりたかった。

でも、わたしが持っているのは、ひらがなだけだった。

母親が子どもに渡せるはずのものを、わたしは、何も持っていなかった。

誠は、中学を出ると、遠くの町の工務店に、住みこみで入った。

十五だった。

大工の見習いだった。

駅で、誠は、ふり返らずに、電車に乗った。

わたしは、元気でね、としか、言えなかった。

第三章 毎週の手紙

誠がいなくなってから、毎週、手紙を書いた。

漢字は書けないから、ひらがなだけで書いた。

まこと、げんきですか。

かあさんは、げんきです。

きょうは、あめでした。

にわのなすが、みっつ、なりました。

次の週も、似たような手紙を書いた。

まこと、ごはんを、たべていますか。

さむくなりました。ふとんを、かけてねなさい。

きょう、とうさんが、いぬに、ほえられました。

それだけの手紙だった。

ちゃんとした母親なら、もっと立派な手紙を書くだろうと思った。

はげましの言葉や、むずかしい言葉を、きれいな漢字で書くのだろう。

わたしの手紙は、小さな子どもの手紙のようだった。

出すたびに、恥ずかしかった。

寮の人に読まれたら、誠が笑われるかもしれない、と思った。

それでも、ほかに書きようがなかった。

毎週、日曜の夜に書いて、月曜の朝に、ポストに入れた。

返事は、ほとんど来なかった。

誠も、字を書くのが苦手だったから、仕方がないと思った。

正月に帰ってきても、誠は、手紙のことを何も言わなかった。

こたつで、だまって、みかんをむいていた。

わたしも、聞かなかった。

読まずに捨てているのなら、それでもいいと思った。

読めても、読めなくても、あの子が元気でいるなら、それでいい。

手紙は、わたしの方のためだったのかもしれない。

書いているあいだだけ、あの子のそばにいられる気がしたから。

十五から二十五まで、十年、書いた。

五百通あまりになったと思う。

誠が二十五で結婚して、家庭を持ったとき、わたしは、手紙をやめた。

もう、母親の手紙は、要らないだろうと思った。

ひらがなだけの手紙なんて、はじめから、要らなかったのかもしれない。

そう思うと、少し、ほっとした。

第四章 体育館

誠は、五十五になった。

町で、小さな工務店をやっている。

弟子が三人いて、みんなに、親方と呼ばれている。

この春、誠から電話があった。

町の小学校で、子どもたちに、仕事の話をすることになった。

母さんにも、来てほしいんだ。

どうして、わたしなのか、分からなかった。

わたしは、学校というところが、今でも苦手だった。

それでも、つえをついて、出かけていった。

誠が、軽トラックで、むかえに来てくれた。

学校の門をくぐるのは、誠の卒業式以来だった。

廊下には、子どもたちの書いた習字が、ずらりと貼ってあった。

どれも、わたしには、書けない字だった。

わたしは、なるべく、そちらを見ないようにして歩いた。

体育館に、子どもたちが、ずらりと座っていた。

わたしは、いちばん後ろの、パイプいすに座った。

前に立った誠は、作業着のままだった。

大きな手に、紙を一枚も持っていなかった。

誠は、まず、かんなを出して、木を一枚、けずってみせた。

うすい木のくずが、くるくると、床に落ちた。

子どもたちが、わあ、と声を上げた。

第五章 一色で、全部

それから、誠は、少しだまった。

ぼくは、子どものころ、字が読めませんでした、と言った。

体育館が、しずかになった。

教科書も、黒板も、駅の看板も、読めなかった。

十五で家を出て、寮に入って、ひとりぼっちでした。

毎週、母から、手紙が来ました。

母の手紙は、ひらがなだけでした。

ぼくが、自分ひとりで、さいごまで読めた字は、母の手紙だけでした。

寮の布団の中で、一通ずつ、声に出して読みました。

まこと、げんきですか。

読めた、と思った。字が、にげていかなかった。

ぼくは、母の手紙で、字を読むのが、こわくなくなりました。

図面が読めるようになったのも、そこからです。

誠は、作業着のポケットから、古い封筒を一通、出した。

五百通、ぜんぶ、箱に入れて、取ってあります。

母は、ひらがなしか、持っていませんでした。

でも、ぼくに要るのは、ひらがなだけでした。

前の方の男の子が、手を上げた。

今でも、字は、読めないんですか。

誠は、笑って、少し読めるよ、と答えた。

でも、むずかしい手紙は、今でも苦手だ。

だから、弟子たちへの連絡は、ひらがなで書いてる。

子どもたちが、笑った。

わたしは、いすから、立ち上がれなかった。

恥ずかしいと思って出していた手紙だった。

ほかに何も持っていないから、それしか、書けなかった手紙だった。

黒一色しか、持っていなかった。

その一色で、あの子に要るものは、ぜんぶ、刷れていた。

エピローグ

家に帰って、引き出しから、便せんを出した。

手紙を書くのは、三十年ぶりだった。

えんぴつを持つ手は、昔より、ずっとふるえた。

それでも、もう、こわくはなかった。

漢字は、今も、覚えられない。

だから、ひらがなで書いた。

まこと、げんきですか。

かあさんは、げんきです。

きょうは、はれでした。

すこし考えて、もう一行、書いた。

ありがとう。

次の月曜の朝、ポストに、入れた。

ソウルミッション358

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