一人だけのバス
どこを取っても、同じ濃さだった

朗読で聴く
第一章 谷の道
七十になった。
ニュージーランドの南の島の、羊の多い谷で暮らしている。
谷には、牧場が点々とあって、町までは車で四十分かかる。
わたしは、三十から六十まで、三十年、この谷のスクールバスを運転した。
朝の七時に、谷の奥の車庫を出る。
牧場の門の前で、一つずつ止まる。
子どもたちを乗せて、町の学校まで走る。
夕方は、その逆を走る。
谷の道は、細くて、曲がりくねっている。
冬は、霜で凍った坂を、ゆっくり下りなければならない。
春は、道のまん中を、羊の群れがふさいでいる。
運転を始めたころ、バスには、四十人の子どもが乗っていた。
にぎやかなバスだった。
歌を歌う子、けんかをする子、窓の外の羊を数える子。
わたしは、一人ずつの名前を覚えた。
乗るときには、おはよう、と名前を呼んだ。
降りるときには、また明日、と名前を呼んだ。
夫のジャックは、牧場で羊を飼っていた。
わたしたちには、子どもがいなかった。
だから、バスの四十人が、わたしの子どもたちのようなものだった。
クリスマスには、一人ずつに、小さなキャンディの袋を配った。
第二章 減っていく子どもたち
谷の牧場は、だんだん、減っていった。
谷の小さな店が閉まり、教会の日曜の礼拝も、月に一度になった。
バスの窓から見える家の明かりが、一つ、また一つと消えていった。
羊の値段が下がり、若い人たちが、町や外国へ出ていった。
バスの子どもも、一年ごとに、減っていった。
四十人が、三十人になり、二十人になり、十人になった。
五十のとき、バスに乗る子は、一人だけになった。
同じ年に、夫のジャックが、心臓の病気で亡くなった。
牧場は、となりの家に売った。
わたしには、バスだけが残った。
谷のいちばん奥の牧場の、六つの女の子だった。
名前は、ルーシーといった。
町は、バスをやめると言うかと思った。
でも、やめなかった。
法律で、子どもが一人でもいれば、バスは走ることになっていた。
それから十年、わたしは、ルーシー一人のために、バスを走らせた。
四十人乗りのバスに、子どもが一人。
わたしは、それを、仕事とは呼べないような気がした。
町の役場で、ある人が、冗談まじりに言ったのを聞いたことがある。
あの谷のバスは、一人のための、世界一高いタクシーだね。
わたしは、笑って聞き流した。
でも、その言葉は、ずっと耳に残った。
第三章 空いた席
毎朝、わたしは、同じ時間に車庫を出た。
途中の牧場の門の前では、もう誰も待っていなかった。
それでも、わたしは、昔の場所で、一つずつスピードを落とした。
なぜそうしたのか、自分でも、よく分からなかった。
谷のいちばん奥で、ルーシーが待っていた。
おはよう、ルーシー、とわたしは言った。
ルーシーは、いちばん前の席に座った。
冬の朝は、乗る前に、ヒーターをつけておいた。
雨の日は、門のすぐ前まで、バスを寄せた。
門の前のぬかるみには、毎年、砂利を自分で運んで、まいた。
帰りは、ルーシーが家の戸を開けるまで、バスを出さなかった。
ルーシーは、あまりしゃべらない子だった。
窓の外を見ながら、ときどき、羊の数を数えていた。
クリスマスには、ルーシーにだけ、キャンディの袋を配った。
四十人のころと、同じ大きさの袋だった。
四十人のときと、同じことを、していただけだ。
でも、わたしは、思っていた。
これは、薄い仕事だ。
一人のために、大きなバスを走らせている。
町の税金を、むだにしている。
ルーシーの父親が車で送れば、すむことだ。
そう思いながらも、わたしは、毎朝、同じ時間に車庫を出た。
ほかに、することがなかったからだと、自分に言い聞かせていた。
六十で運転をやめたとき、わたしは、ほっとした。
最後の十年は、わたしの仕事の、おまけのような年月だった。
第四章 新しい看板
運転をやめて、十年がたった。
この春、谷の入り口の古い店が、動物病院に変わった。
開院の日、わたしのところに、手紙が届いた。
開院のお祝いに、来てください。
ルーシーより。
わたしは、驚いた。
あの子が、獣医になって、谷に帰ってきたのだ。
当日、わたしは、ひさしぶりに谷の道を車で走った。
道の両側の牧場には、また、羊が増えていた。
新しい家も、いくつか建っていた。
昔のバス停の場所で、思わず、スピードを落とした。
動物病院の前には、谷の牧場の人たちが集まっていた。
白い服のルーシーが、わたしを見つけて、走ってきた。
二十六になっていた。
ルーシーは、わたしの手をにぎって、来てくれてありがとう、と言った。
声が、すっかり大人になっていた。
でも、目を細めて笑う顔は、いちばん前の席の六つの子のままだった。
第五章 同じ濃さ
ルーシーは、集まった人たちの前で、短いあいさつをした。
そして、最後に、わたしのほうを向いた。
わたしが、この谷に帰ってきたのは、この人のせいです。
小学校から中学校まで、十年、わたしは一人で、この人のバスに乗りました。
一人なのに、この人は、毎朝、昔のバス停で、一つずつ止まってくれました。
わたしは、それが、不思議でした。
ある朝、聞きました。
どうして、誰もいないのに、止まるの。
この人は、ここには、昔、トムが乗っていたのよ、と言いました。
次のバス停では、エマが乗っていたのよ、と言いました。
わたしは、毎朝、谷の子どもたちの名前を、全部覚えました。
わたしは一人だったけど、バスの中は、さびしくなかった。
四十人のときと、同じバスに、乗せてもらっていたんです。
名前を呼ばれて乗るバスは、どこにも無かった。
町の学校で、ほかの子たちは、親の車で来ていました。
わたしだけが、毎朝、名前を呼ばれて、学校に行けたんです。
ヒーターも、雨の日の寄せ方も、また明日、の言い方も。
どこを取っても、同じだった。
だから、わたしは、この谷を、自分の場所だと思えたんです。
わたしは、何も言えなかった。
集まった牧場の人たちの中に、見覚えのある顔が、いくつかあった。
トムも、エマも、大人になって、谷に帰ってきていた。
みんな、わたしのほうを見て、うなずいていた。
どこを取っても、同じ濃さだった。
薄い仕事だと思っていた十年は、四十人の年と、同じ濃さで、すられていた。
エピローグ
ルーシーは、わたしを、病院の中に案内した。
待合室のいちばん前に、古い座席が、一つ置いてあった。
バスの、いちばん前の席だった。
町の車庫に、捨てられずに残っていたのを、もらってきたのだという。
わたしは、その席に、腰をおろした。
座ると、背中が、昔の運転席と同じ高さだった。
ヒーターの下で、いつもルーシーが座っていた席だ。
窓の外を、羊の群れが、ゆっくり通っていった。
ルーシーが、となりで言った。
白い服のすそに、羊の毛が一本ついていた。
また明日、って、言ってくれる?
わたしは、言った。
また明日、ルーシー。
ルーシーは、うなずいて、待合室の窓を開けた。
羊の鳴き声と、谷の風が、入ってきた。
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