同じみそ汁
どこを取っても、同じ濃さだった

朗読で聴く
第一章 豆腐屋
七十二になった。
坂の多い港の町で、四十年、小さな豆腐屋をやってきた。
朝の三時に起きて、大豆を挽く。
五時には、店の前に、できたての豆腐が並ぶ。
近所のおばあさんたちが、なべを持って買いに来る。
一丁ずつ、水の中から手ですくって、なべに入れてやる。
朝の水は、冬は、指がちぎれるほど冷たかった。
店は、去年、閉めた。
常連のおばあさんたちが、最後の日に、なべを持って並んでくれた。
四十年、ありがとう、と言われた。
わたしは、何と答えたか、覚えていない。
腰が、もう、重い桶を持ち上げられなくなった。
わたしには、子どもが三人いる。
長男の一郎は、四十八になる。
次男の健司は、四十五。
末の娘の美加は、四十一だ。
妻のかず子は、三十八年前に、病気で亡くなった。
健司が、七つのときだった。
それから、わたしは、一人で三人を育てた。
朝は、豆腐を作り終えてから、三人の弁当を作った。
夜は、店を閉めてから、三人の宿題を見た。
寝るのは、いつも、日付が変わってからだった。
豆腐を作りながら、三人を育てた。
うまくやれたとは、思っていない。
とくに、健司には、悪いことをしたと思っている。
第二章 入院の年
かず子が亡くなった年、一郎がぜんそくで入院した。
一郎は、十だった。
発作が出ると、夜中でも、病院に走った。
入院は、一年近く続いた。
わたしは、毎日、店を閉めてから、病院に通った。
末の美加は、まだ三つだった。
美加は、母親がいなくなったことが、まだよく分からなかった。
夜になると、おかあさん、と言って、泣いた。
わたしは、美加を背中におぶって、病院の廊下を歩いた。
近所のおばあさんに預けたり、病院に連れていったりした。
その一年、健司は、ほとんど一人だった。
学校から帰ると、店の奥の部屋で、一人で宿題をしていた。
運動会にも、参観日にも、わたしは行けなかった。
健司は、何も言わなかった。
文句を言わない子だった。
だから、わたしも、健司には、つい、何もしてやらなかった。
一郎には病院で絵本を読み、美加は膝にのせて寝かしつけた。
健司の誕生日も、病院の待合室で、ケーキも無いまま過ぎた。
夜、店の奥の部屋に戻ると、健司は、もう一人で寝ていた。
机の上に、自分で書いた絵が一枚、置いてあった。
みそ汁のおわんが、三つ並んでいる絵だった。
わたしは、それを、何の絵だろうと思っただけで、片づけてしまった。
健司には、何をしてやっただろう。
思い出せることが、何もない。
健司の小学校の通知表に、先生が書いていたことがある。
しっかりした子です。でも、もう少し甘えてもいいと思います。
わたしは、その通知表を、店の帳場の引き出しにしまった。
しまったまま、健司に、何も言わなかった。
あの子には、薄くしかしてやれなかった。
三十八年、そう思ってきた。
第三章 健司の店
健司は、高校を出ると、町の定食屋で働きはじめた。
それから二十七年、いくつかの店で、料理を作ってきた。
休みの日に帰ってきても、あまり話をしなかった。
店の手伝いをして、夕飯を食べて、すぐに帰っていった。
わたしは、あの子とは、どこか遠いままなのだと思っていた。
この春、健司が、自分の店を出すことになった。
駅の近くの、カウンターだけの、小さな定食屋だ。
開店の前の日、健司から電話があった。
父さん、明日の朝、店に来てくれないか。
最初の客は、父さんにしたいんだ。
わたしは、なぜ自分なのか、分からなかった。
一郎は、市役所に勤めていて、もう課長になっていた。
美加は、看護師になって、隣の町の病院で働いている。
二人とも、わたしよりずっと、店のお祝いにふさわしかった。
一郎か美加のほうが、ふさわしい気がした。
でも、行く、と答えた。
次の朝、わたしは、つえをついて、駅まで歩いた。
店をやっていたころは、毎朝、まだ暗いうちに歩いた道だった。
明るい時間に歩くと、知らない町のように見えた。
のれんは、まだ、かかっていなかった。
店の中から、だしのにおいがしていた。
健司が、戸を開けて、待っていた。
第四章 朝の定食
カウンターに座ると、健司が、盆を出してくれた。
ご飯と、焼き魚と、漬物。
そして、豆腐とわかめのみそ汁。
わたしは、みそ汁を、ひと口すすった。
手が止まった。
わたしの、みそ汁だった。
大豆を挽いた日の、少し甘いみそ汁。
にぼしは、三本。
豆腐は、さいの目より、少し大きめ。
かず子が亡くなってから、毎朝、わたしが三人に作った、みそ汁の味だった。
健司が、カウンターの向こうで、言った。
父さん、うちのみそ汁、毎朝、同じ濃さだったよね。
兄ちゃんが入院してた年も、美加が熱を出した日も。
父さんが、ふらふらで帰ってきた次の朝も。
ぼく、あれを、ずっと不思議に思ってたんだ。
どうして、毎日、おんなじ味がするんだろうって。
健司は、カウンターの下から、古いお玉を出した。
店の台所で、わたしが使っていたお玉だった。
父さん、みそを、このお玉で、いつもすり切り一杯、はかってたでしょう。
一人に一杯ずつ。三人で、三杯。
ぼくの分も、兄ちゃんの分も、美加の分も、同じ一杯。
ぼく、台所のすみで、毎朝、それを見てたんだ。
第五章 同じ濃さ
わたしは、何も言えなかった。
覚えていなかった。
みそを、お玉ではかっていたことなど、考えたこともなかった。
疲れていて、ほかのやり方を、考える力がなかっただけだ。
健司は、言った。
健司は、カウンターに手をついて、少し下を向いていた。
言いにくいことを言うときの、子どものころと同じ顔だった。
運動会に来てもらえなかったのは、さびしかったよ。
でも、朝のみそ汁は、兄ちゃんと、同じ濃さだった。
だから、ぼくは、大丈夫だったんだ。
料理人になってから、分かった。
毎日、同じ濃さに作るのが、いちばんむずかしい。
店は、毎日、同じ味じゃないと、続かないんだ。
ぼくは、それを、父さんのみそ汁で、覚えた。
どこを取っても、同じ濃さだった。
わたしが、薄くしかしてやれなかったと思っていた年も、
健司のおわんには、毎朝、同じ一杯のみそが入っていた。
わたしは、もう一度、みそ汁をすすった。
少し、しょっぱい気がした。
それは、みそのせいではなかった。
健司は、わたしの顔を見ないように、魚を焼く網のほうを向いていた。
その背中が、かず子に似ていた。
エピローグ
昼前に、のれんがかかった。
健司が、外に出て、のれんの曲がりを直した。
わたしは、カウンターのいちばん奥の席で、それを見ていた。
みそ汁のおわんは、もう、からになっていた。
最初の客が入ってきた。
健司は、いらっしゃいませ、と大きな声で言った。
台所の壁に、あの古いお玉が、かかっていた。
お玉のふちは、四十年で、少しすり減って、ゆがんでいた。
わたしは、帰りに、豆腐を一丁、買った。
近所のスーパーの豆腐だった。
家に帰って、ひさしぶりに、みそ汁を作った。
みそは、お玉で、すり切り一杯、はかった。
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