削られた庭
削り取られたところが、白く光っていた

朗読で聴く
第一章 桜の庭
七十四になった。
城のあった町の、古い住宅地で、一人で暮らしている。
夫と建てた家で、四十五年になる。
夫は、市役所の水道課に、四十年勤めた。
口数の少ない人で、怒ったところを、ほとんど見たことがない。
南に、小さな庭がある。
昔は、もっと大きな庭だった。
庭のまん中には、桜の木が一本あった。
家を建てた年に、夫と二人で植えた苗木だった。
三十年で、二階の屋根に届くほどの大きな木になった。
春になると、庭じゅうが、うすいピンクになった。
近所の人たちが、垣根の外から、花を見上げていった。
わたしは、その桜が、自分の人生でいちばんの自慢だった。
散った花びらを、毎年、ほうきで集めるのが、わたしの仕事だった。
集めた花びらは、庭のすみに埋めた。
次の年の桜の、肥やしになるのだと、夫は言った。
夏は、木の下が、ちょうどいい日かげになった。
夫は、縁台を出して、そこで新聞を読んだ。
娘の美和は、その木の下で、ままごとをして育った。
毎年、花のころに、木の下で家族の写真をとった。
四十五年のアルバムには、いつも、桜の木が写っている。
美和が結婚した年も、桜の下で写真をとった。
美和は、白い着物で、木を見上げて笑っていた。
孫が生まれてからは、孫も、その写真に加わった。
第二章 道が広がる
十二年前、六十二のときだった。
市から、手紙が届いた。
家の前の道を、広げることになりました。
お宅の土地の一部を、ゆずっていただきたい。
道の広がるぶんは、ちょうど、庭の半分だった。
桜の木は、その線の、真上にあった。
わたしは、何度も市役所に行った。
木だけは残してほしい、と頼んだ。
でも、だめだった。
その道は、町の東と西をつなぐ、大事な道になるのだという。
救急車が通れる広さにするのだと、市の人は言った。
近くに、新しい小学校もできるのだという。
夫は、仕方がない、と言った。
わたしは、夫が、あっさりあきらめたのが、くやしかった。
あなたは、あの桜が大事じゃないの、とわたしは言った。
夫は、大事だよ、とだけ言って、庭に出ていった。
その夜、夫は、桜の木の下で、長いあいだ、たばこを吸っていた。
たばこは、二十年前にやめたはずだった。
秋のある朝、工事の人たちが来て、桜を切った。
チェーンソーの音が、一時間、鳴りつづけた。
わたしは、雨戸を閉めて、台所にいた。
音が止んで、雨戸を開けると、庭が半分になっていた。
切り株も、もう、掘り出されていた。
あとには、新しい土が、平らにならしてあった。
四十年近く、そこに木があったとは思えないほど、何も無かった。
庭を削られた、と思った。
四十年近い家族の時間を、削り取られたのだと。
それからしばらく、わたしは、庭に出なかった。
道を通る車の音が、前よりずっと近くに聞こえた。
新しい歩道ができて、家の前を、たくさんの人が歩くようになった。
知らない人に、家の中をのぞかれているようで、いやだった。
第三章 奥の部屋
道が広がって、二年たったころ、夫が倒れた。
六十五のときだった。
夏の朝、庭で水をまいていて、急に胸をおさえてしゃがみこんだ。
救急車は、新しく広がった道を通って、すぐに来た。
心臓が弱って、ほとんど寝たきりになった。
夫は、病院より、家がいいと言った。
先の長くないことは、医者からも、それとなく聞かされていた。
わたしは、奥の部屋に、夫の布団をしいた。
庭に面した、六畳の部屋だった。
昔は、桜の木のかげになって、昼でも少し暗い部屋だった。
それから三年、わたしは、その部屋で夫をみた。
夫は、一日のほとんどを、布団の上で、庭のほうを向いてすごした。
朝、わたしが雨戸を開けると、夫は、いつも、もう目を開けていた。
雨戸を開けるのを、待っていたのだと、あとで思った。
何を見ているのだろう、とわたしは思った。
庭は、半分になって、さびしくなっていた。
桜も、もう無い。
道を走る車と、学校に行く子どもたちが見えるだけだった。
わたしは、夫に、つまらない景色でごめんなさいね、と言った。
桜があったら、春には花が見られたのにね。
夫は、首をふって、何か言いかけたが、そのまま目を閉じた。
七年前の冬、夫は、その部屋で亡くなった。
六十八だった。
第四章 夫の手帳
この春、娘の美和が、夫の遺品の整理を手伝いに来てくれた。
美和は、四十五になる。
夫の机の引き出しから、小さな手帳が出てきた。
寝たきりになってから、夫が、ふるえる手で書いていたものだった。
美和が、ページをめくりながら、読んでくれた。
今日も、部屋に日が入った。
桜があったころは、この部屋に日が入らなかった。
木が無くなって、空が見える。
朝、日が、布団の上まで来る。
子どもたちが、新しい歩道を、学校へ歩いていく。
桜のかわりに、毎朝、子どもたちが咲いている。
美和は、そこで、読むのをやめた。
手帳には、日付と、その日の空の色だけが書かれたページも、たくさんあった。
晴れ。青。
くもり。白。
雨。灰色。
三年分、一日もぬけていなかった。
わたしは、何も言えなかった。
美和が、手帳の最後のページを開いて、わたしに見せた。
そこには、夫の字で、一行だけ書いてあった。
桜を切らせて、すまなかった。でも、この部屋は明るい。
夫が、あっさりあきらめたのは、くやしくなかったからではなかった。
削られた庭のかわりに、空が来ることを、知っていたのかもしれない。
第五章 白い光
その日の午後、わたしは、奥の部屋に入った。
三年、夫がいた部屋だ。
畳の上に、日が、まっすぐ入っていた。
桜があったころには、一度も見たことのない、白い光だった。
削り取られたところが、白く光っていた。
庭の半分が無くなったところから、空が入ってきていた。
夫は、三年、毎朝、この光を見ていたのだ。
わたしは、畳の上に座った。
背中が、あたたかかった。
夫が三年、毎朝、感じていたのと同じあたたかさだと思った。
窓の外では、新しい歩道を、子どもたちが歩いていた。
桜の木の下で、ままごとをしていた美和と、同じくらいの子たちだった。
わたしは、桜を失ったと思っていた。
でも、桜の木がつくっていた日かげのぶんだけ、この部屋は、光を待っていたのだ。
美和が、となりに来て座った。
お父さん、この景色、好きだったんだね、と美和は言った。
わたしは、うなずいた。
わたし、桜の木の下で遊んでたけど、この部屋は、いつも少しこわかったの。
暗かったから。今は、こんなに明るいんだね、と美和は言った。
エピローグ
次の朝、わたしは、奥の部屋の窓を、大きく開けた。
歩道を、子どもたちが歩いていった。
一人の男の子が、窓のわたしに、おはようございます、と言った。
わたしも、おはよう、と言った。
わたしは、その日、園芸店で、小さな鉢を一つ買った。
歩道からも見えるように、窓の外の、残った庭に置いた。
鉢には、赤い花が咲いていた。
日は、その上にも、まっすぐ届いていた。
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