畳の道
白いままの日は、一日も無かった

朗読で聴く
第一章 白いカレンダー
七十二になった。
山のふもとの小さな町で、一人で暮らしている。
古い家の奥に、八畳の和室がある。
二年前まで、そこに、夫の介護用のベッドがあった。
夫の正一は、わたしより三つ年上だった。
わたしが六十一のとき、夫は脳出血で倒れた。
命は助かったが、右の手と足が動かなくなった。
言葉も、ほとんど出なくなった。
医者は、施設に入れることも考えてください、と言った。
わたしは、首をふった。
夫は、家が好きな人だった。
自分で建てた家で、庭の松を、毎朝、ながめる人だった。
病院から帰ってきた日、和室に、ベッドを入れた。
それから九年、わたしは、家で夫をみた。
夫は、二年前の冬、七十三で亡くなった。
台所の柱に、毎年、同じカレンダーをかけてきた。
介護が始まる前は、予定をたくさん書きこんだ。
友だちとの旅行、町内の集まり、孫の誕生日。
介護が始まってから、わたしは、何も書かなくなった。
書くことが、何も無かったからだ。
毎日、同じことのくり返しだった。
息子の家族は、遠い町に住んでいた。
年に一度、正月に来るだけだった。
来るたびに、母さん、無理しないで、と言った。
わたしは、大丈夫、と答えた。
大丈夫かどうか、考えるひまも無かった。
九年分のカレンダーは、どれも、白いままだった。
夫が亡くなったあと、わたしは、その九年を、自分の人生から抜け落ちた年月だと思った。
第二章 くり返し
介護の毎日は、本当に、同じことのくり返しだった。
朝の六時に、夫の体を拭く。
おむつを替えて、着替えさせる。
おかゆを、一さじずつ、口に運ぶ。
昼に、また体の向きを変える。
夜は、二時間ごとに起きて、夫の体の向きを変えた。
そうしないと、床ずれができるからだ。
右を下にして寝かせたら、二時間後に左を下にする。
九年、一晩も、休まなかった。
冬の夜中は、和室の空気が、氷のように冷たかった。
わたしは、ちゃんちゃんこを着て、ベッドの横に立った。
夫の体は、重かった。
それでも、ゆっくり、ゆっくり、向きを変えた。
夫は、目を開けて、わたしを見た。
言葉は出なかったけれど、目で、すまない、と言っていた。
友だちは、だんだん、電話をくれなくなった。
旅行にさそわれても、行けなかった。
鏡を見ると、知らないおばあさんがいた。
髪をそめに行く時間も、無かった。
白い髪を、自分で、台所のはさみで切った。
化粧品は、引き出しの奥で、かたまっていた。
わたしの九年は、何も起きなかった九年だ。
何も作らず、どこにも行かず、だれにも会わなかった。
夫のいなくなった和室で、わたしは、そう思っていた。
葬式のあと、親せきの一人が言った。
九年も大変だったね。これからは、自分の人生を生きなさい。
わたしは、うなずいた。
では、この九年は、わたしの人生ではなかったのだろうか。
そう考えると、和室に入るのが、こわくなった。
二年、わたしは、和室の戸を閉めたままにしていた。
第三章 八畳の和室
この秋、息子の家族が、遊びに来ることになった。
孫が二人いるので、和室を空けることにした。
夫のベッドは、亡くなってすぐに返していた。
それでも、和室には、まだ、物が残っていた。
おむつの箱、体を拭くタオル、すいのみ。
わたしは、一つずつ、ごみ袋に入れた。
すいのみを持つと、指が、その形を覚えていた。
九年、毎日、何十回も持った物だった。
最後に、ベッドの横に敷いていた、薄いマットをはがした。
その下の畳を見て、手が止まった。
畳に、一本の道ができていた。
和室の入り口から、ベッドのあったところまで。
畳の目が、そこだけ、すり減って、白っぽくなっていた。
ちょうど、わたしの足の幅くらいの道だった。
道は、ベッドのあった場所の右側と左側に、二つに分かれていた。
夫の体の向きを変えるとき、右に回り、左に回った。
その道だった。
わたしは、畳の上に、ひざをついた。
白っぽい道を、指でなぞった。
畳の目は、ささくれて、やわらかくなっていた。
九年、毎日、何十回と、ここを歩いたのだ。
第四章 看護師さん
次の日、訪問看護の佐藤さんが、線香をあげに来てくれた。
九年間、毎週、夫をみに来てくれた人だ。
佐藤さんは、和室の畳を見て、しばらく黙っていた。
佐藤さんは、五十を過ぎた、背の高い人だ。
いつも、玄関で、こんにちは、と大きな声を出した。
それから、しずかに言った。
ご主人、九年、一度も床ずれができませんでしたね。
わたし、二十年この仕事をしていますけど、九年で一度もない人は、初めてでした。
夜中に二時間ごとに起きる人は、たくさんいます。
でも、九年、一晩も休まずにそれをする人は、まずいません。
ご主人の背中は、最後まで、きれいでした。
わたしたち看護師は、毎週来て、それを見るたびに、びっくりしていたんです。
事務所で、あの家の奥さんは、すごいねって、いつも話していました。
あれは、毎晩の、奥さんの手の跡です。
わたしは、畳の道を見た。
白いままの日は、一日も無かった。
カレンダーに書くことが無かった日にも、畳には、毎日、道がついていた。
夜中の二時にも、四時にも、わたしは、この上を歩いていた。
その一歩ずつが、畳の目に、残っていた。
第五章 カレンダー
佐藤さんが帰ったあと、わたしは、物置から、九年分のカレンダーを出してきた。
どれも、日付の下が、白いままだった。
わたしは、えんぴつを持って、台所のテーブルに座った。
一枚目の、最初の日に、小さく丸を書いた。
次の日にも、丸を書いた。
その次の日にも、書いた。
一日も、とばさなかった。
丸を書きながら、その日のことが、少しずつ、思い出された。
この日は、夫が、おかゆを全部食べた。
この日は、熱が出て、一晩じゅう、氷を替えた。
この日は、窓から、初雪が見えて、夫が、少しだけ笑った。
何も無かったと思っていた日に、どれも、何かがあった。
九年分、書き終えるのに、三日かかった。
どの日にも、丸が一つずつ、並んだ。
丸は、どれも、同じ大きさだった。
同じことのくり返しは、何も無いことではなかった。
毎日、同じことを、した日だった。
わたしは、丸のついたカレンダーを、まとめて、ひもでしばった。
それを、夫の仏壇の引き出しに、しまった。
仏壇の夫の写真は、倒れる前の年に、庭で撮ったものだ。
松の木の前で、少し照れたように笑っている。
わたしは、写真に、九年分、おつかれさま、と言った。
エピローグ
週末、息子の家族が来た。
和室には、孫たちの布団が二つ、並んだ。
小さいほうの孫が、畳の白い道を見つけて、たずねた。
おばあちゃん、これ、なあに。
おばあちゃんが、毎日、歩いた道よ、とわたしは答えた。
孫は、その道の上を、つま先で、そっと歩いた。
入り口から、奥まで。
それから、くるりと回って、戻ってきた。
わたしは、台所の柱に、新しいカレンダーをかけた。
来週の土曜日に、友だちとお茶、と書きこんだ。
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