縁側の七年
白いままの日は、一日も無かった

朗読で聴く
第一章 白紙の七年
六十一になった。
川ぞいの古い町で、一人で暮らしている。
父と母が残した平屋で、南に長い縁側がある。
わたしの人生には、七年、白いままの年月がある。
四十四の春から、五十一の春までの七年だ。
それまで、わたしは町の信用金庫で、二十年、窓口に座っていた。
数字を合わせるのが、得意だった。
一円でも合わないと、合うまで帰らなかった。
後輩たちは、わたしのことを、計算機さんと呼んだ。
家には、寝に帰るだけだった。
四十四の冬、朝、制服に着替えようとして、手が止まった。
ボタンが、どうしても、とめられなかった。
医者は、うつ病です、と言った。
わたしは、仕事をやめて、この家に帰ってきた。
それからの七年、わたしは、何もしなかった。
朝起きて、縁側に座る。
庭の柿の木を見る。
夕方になると、雨戸を閉める。
それだけの毎日だった。
本を開いても、字が目に入ってこなかった。
テレビの音も、うるさく感じた。
母が亡くなってから、この家には、わたし一人だった。
近所の人に会うのがいやで、昼間は、門を閉めておいた。
柿の葉が落ちて、また芽が出るのを、七回、見た。
履歴書の、四十四から五十一の欄は、白いままだ。
あの七年のことを聞かれると、わたしは、いつも、何もしていませんでした、と答えた。
五十一で、町の図書館の、本を並べる仕事に就いた。
それから十年、毎日、本を並べてきた。
でも、あの七年は、わたしの中で、白紙のままだった。
図書館で、子どもたちが本を借りていくのを見ると、ときどき、胸が痛んだ。
わたしは、あの七年、だれの役にも立たなかった。
数字を合わせることも、本を並べることも、しなかった。
ただ、時間が、わたしの上を、通り過ぎていっただけだ。
第二章 招待状
この春、姪の美咲から、結婚式の招待状が届いた。
美咲は、兄の娘で、二十八になる。
兄の家は、この家から歩いて五分のところにある。
封筒には、もう一枚、小さな紙が入っていた。
おばさんに、式で、一つお願いがあります。
当日まで、ないしょです。
わたしは、紙を何度も読み返した。
式に出るのは、気が重かった。
親せきが集まれば、必ず、あの七年のことを聞かれる。
前に法事で集まったとき、おじに言われたことがある。
あんたは、一番いい年を、むだにしたな。
おじに悪気はなかったと思う。
でも、その言葉は、ずっと、のどの奥にささったままだった。
兄の会社の人たちも来る。
あのころ、何をしていたの、と聞かれたら、どう答えよう。
わたしは、着ていく服を決められないまま、一か月を過ごした。
たんすの奥から、母の形見の、紺のワンピースを出してみた。
すそを少し上げれば、着られそうだった。
でも、袖を通すたびに、また、たんすに戻した。
鏡の前で、昔の制服のボタンを、思い出した。
それでも、美咲の顔を思い浮かべると、行かないとは言えなかった。
第三章 お祝いの席
六月の土曜日、町のホテルで、式があった。
美咲は、白いドレスで、ゆっくり歩いてきた。
小さいころの、細い腕を思い出した。
あの子が、こんなにしっかりした顔になった。
わたしは、いちばん後ろの席に座った。
食事が始まると、となりの席の親せきが、わたしに聞いた。
あなた、昔、しばらく家にいたんでしょう。
何をしていたの。
わたしは、いつものように、何も、と答えた。
何もしていなかったのよ、と笑ってみせた。
親せきは、そう、と言って、話を変えた。
わたしは、皿の上の魚を、ゆっくり、小さく切った。
前の席では、兄が、会社の人たちと笑っていた。
兄の妻の和代さんは、何度も、美咲のほうを見て、目を赤くしていた。
和代さんは、看護師だった。
美咲が小さいころは、夜勤で、ほとんど、家にいなかった。
やっぱり、来なければよかった、と思った。
式の終わりに、花嫁の手紙の時間があった。
美咲は、両親への手紙を読み終えると、紙をもう一枚、取り出した。
最後に、もう一人、お礼を言いたい人がいます。
美咲は、わたしの名前を呼んだ。
第四章 縁側の手紙
会場の人たちが、いっせいに、わたしのほうを見た。
美咲は、声をふるわせながら、読んだ。
わたしが十一のとき、母が夜まで働くようになりました。
学校から帰っても、家にはだれもいませんでした。
だから、わたしは、毎日、おばさんの家に行きました。
おばさんは、いつも、縁側に座っていました。
雨の日も、雪の日も、座っていました。
わたしが行くと、おばさんは、りんごをむいてくれました。
わたしは、縁側で、宿題をしました。
友だちとけんかした日も、テストが悪かった日も、話を聞いてくれました。
中学で、学校に行けなくなった三か月も、おばさんの縁側に通いました。
おばさんは、行きなさいとは、一度も言いませんでした。
ただ、毎日、そこに座っていてくれました。
十一から十八まで、七年、毎日です。
おばさんの縁側に、白い日は、一日もありませんでした。
会場が、しずかになった。
前の席で、和代さんが、ハンカチで顔をおさえていた。
兄が、わたしのほうをふり返って、小さく頭を下げた。
わたしは、ひざの上で、手をにぎりしめた。
白いままの日は、一日も無かった。
わたしが白紙だと思っていた七年に、毎日、だれかが来ていた。
わたしは、何もしていなかったのではなかった。
毎日、そこに、座っていたのだ。
第五章 板の色
式のあと、美咲が、わたしの席まで来た。
おばさん、縁側の板、覚えてる。
美咲は、ドレスのすそを持ち上げて、わたしのとなりにしゃがんでいた。
目のまわりが、まだ赤かった。
おばさんが座ってたところだけ、色がちがうでしょう。
わたし、あそこを、おばさんの席って呼んでたの。
わたしは、首をふった。
座っている自分を、自分で見ることは、できない。
自分では、一度も、見たことがなかった。
その夜、わたしは、家に帰って、縁側の電気をつけた。
板の上に、一か所だけ、色の薄いところがあった。
ちょうど、人が一人、座ったくらいの大きさだった。
そのとなりに、もう一つ、小さな薄いところがあった。
ランドセルを置いていたところだ、と思った。
七年、毎日、同じところに、二人で座っていた。
板が、それを、全部、覚えていた。
わたしは、その色の薄いところに、そっと手を置いた。
あたたかい気がした。
わたしは、その夜、縁側で、遅くまで座っていた。
庭の暗がりで、柿の葉が、風に鳴っていた。
七年、毎日、聞いていた音だった。
エピローグ
次の朝、わたしは、図書館に行く前に、縁側に座った。
庭の柿の木に、青い実がついていた。
わたしは、引き出しから、古い履歴書を出してきた。
四十四から五十一の欄は、やはり、白いままだった。
わたしは、えんぴつで、その欄に、小さく書いた。
縁側に座っていた。
それから、履歴書を、引き出しに戻した。
夏休みには、美咲が、だんなさんと遊びに来るという。
わたしは、りんごを、二つ買っておこう、と思った。
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