アルトの椅子
誰もいない真ん中に、座る場所があった

朗読で聴く
第一章 木曜の夜
六十二になった。
城下町の、古い商店街の近くで、一人で暮らしている。
三十で、町の合唱団に入った。
それから三十二年、木曜の夜は、公民館の二階で歌ってきた。
合唱団は、ちょうど五十年前にできた。
団員は、いま、二十八人いる。
練習の前に、みんなで、パイプ椅子を半分の円に並べる。
並べるのは、早く来た人の仕事だ。わたしは、いつも早く来た。
椅子の足が床をこする音を聞くと、一週間のつかれが、少しほどけた。
右から、ソプラノ、アルト、テナー、バスの順に座る。
わたしの席は、アルトの前の列の、真ん中だった。
二十五年、ずっと、その椅子に座ってきた。
そこに座ると、ピアノの音と、指揮の先生の手が、まっすぐ見えた。
両どなりのアルトの声が、わたしの声のまわりに集まってくる。
わたしは、声の大きな人ではなかった。
でも、まっすぐ出る声だと、先生は言ってくれた。
ほかの人の声をまとめる、芯のような声だ、と。
わたしは、それがうれしくて、練習を休まなかった。
先生の森さんは、七十六になる。
昔、中学校で音楽を教えていた人だ。
仕事も、母のかいごも、木曜の夜があったから、続けられた。
歌っているあいだだけ、わたしは、わたしに戻れた。
夫とは、四十のときに別れた。子どもは、いない。
家に帰ると、誰の声もしない。
だから、木曜の夜の、二十八人の声の真ん中が、わたしの居場所だった。
第二章 出ない声
二年前、六十のときだった。
のどに、しこりが見つかった。
甲状腺の手術を受けた。
手術は、うまくいった。
けれど、声が、前のようには、出なくなった。
話す声は、かすれた。
高い音を出そうとすると、のどが、ふるえて止まった。
アルトの、いちばん大事な音が、もう出なかった。
家で、一人で、何度もためしてみた。
ピアノの代わりに、小さな笛で音を取った。
出るはずの音のところで、声は、紙のようにやぶれた。
鏡の前で、口を開けたまま、わたしは、しばらく動けなかった。
わたしは、合唱団に、手紙を書いた。
声が出なくなったので、やめます。
長いあいだ、ありがとうございました。
仲のいいアルトの佐和子さんが、電話をくれた。
練習、見に来るだけでもいいのよ、と言った。
わたしは、行かなかった。
行けば、真ん中に座っている新しい人を、見ることになる。
その人の、まっすぐ出る声を、聞くことになる。
それが、こわかった。
わたしの椅子には、もう、誰か新しい人が座っているだろう。
それでいい、と思った。
合唱団は、わたしがいなくても、ちゃんと歌える。
木曜の夜は、家で、テレビの音を小さくして、過ごした。
八時になると、いまごろ、二曲目だろう、と思った。
九時になると、いまごろ、椅子をたたんでいるだろう、と思った。
二年、公民館の前の道を、通らないようにした。
第三章 五十年の演奏会
この秋、合唱団が、五十年の演奏会を開くことになった。
佐和子さんから、ちらしが届いた。
練習、一度だけでも、聞きに来て。
先生も、待ってるから。
わたしは、まよった末に、木曜の夜、公民館の階段をのぼった。
二年ぶりだった。
階段の手すりは、前と同じに、少しぐらついていた。
練習室から、ピアノの音が、かすかに聞こえた。
練習室の戸を、少しだけ開けた。
パイプ椅子が、半分の円に並んでいた。
みんなは、まだ、来ていなかった。
先生が一人で、椅子を並べていた。
七十六の先生は、一つ並べるごとに、腰をのばした。
アルトの前の列の、真ん中にも、椅子が一つ、置いてあった。
先生は、その椅子の上を、手のひらで、軽くはらった。
わたしは、知らない人の席なのだと思った。
やがて、団員が集まって、練習が始まった。
わたしは、いちばん後ろの壁ぎわに、立って聞いた。
二十八人の声は、前と同じように、きれいにそろっていた。
わたしがいなくても、ちゃんと歌えている、と思った。
真ん中の椅子には、最後まで、誰も座らなかった。
練習が終わると、みんなは、自分の椅子をたたんだ。
真ん中の椅子だけは、先生が、自分でたたんだ。
第四章 居ることになっている
練習のあと、佐和子さんが、わたしの手を取った。
あの椅子ね、先生が、毎週並べるの。
あなたがやめてから、二年、一回も休まずに。
新しく入った人が、座ろうとしたこともあったのよ。
でも先生が、そこは、居ることになってる席です、って。
あそこを空けると、アルトの音がまとまらないんだって。
だから、みんな、真ん中に、あなたが居るつもりで歌ってきたの。
両どなりの二人が、まん中に向かって、声を寄せるのよ。
わたしも、二年、あなたの声を思い出しながら、歌ってきたの。
先生が、ピアノのふたを閉めて、こちらに来た。
先生は、二年前より、少しやせていた。
空けていたんじゃありません、と先生は言った。
あなたの席です。
あそこには、あなたが、居ることになっています。
わたしは、声が出ないんです、とかすれた声で言った。
低くて、いいんです。
かすれていても、いいんです。
真ん中で、鳴っていれば、それでいい。
わたしは、半分の円を、もう一度見た。
誰もいない真ん中に、座る場所があった。
二年、そこは、空いていたのではなかった。
わたしの居るはずの場所として、毎週、並べられていた。
第五章 低い声
次の木曜、わたしは、アルトの真ん中の椅子に座った。
先生が、わたしの楽譜を、低い音に書き直してくれていた。
テナーと同じくらいの、低い音だった。
楽譜のすみには、先生の字で、小さく書いてあった。
無理をしないで。真ん中で、鳴っていればいい。
ピアノが鳴って、みんなが、息を吸った。
わたしも、吸った。
のどが、少しだけ、ふるえた。
出てきたのは、かすれた、低い声だった。
前の声とは、ちがった。
でも、両どなりの声が、わたしの声のまわりに、集まってきた。
二年前と同じように、集まってきた。
となりの佐和子さんが、歌いながら、わたしの肩に、少しだけ寄った。
わたしは、気がついた。
声が集まってくるのは、わたしの声が、きれいだったからではない。
真ん中に、誰かが座っていたからだ。
わたしは、三十二年、その真ん中に、座らせてもらっていたのだ。
まわりの声が、わたしを、真ん中にしてくれていたのだ。
エピローグ
十一月の演奏会の日、市民ホールの舞台に、椅子が並んだ。
アルトの前の列の、真ん中に、わたしは座った。
照明が、半分の円を、上から照らした。
客席は暗くて、一人ひとりの顔は見えなかった。
先生の手が、上がった。
わたしは、低い声のまま、真ん中で、歌った。
両どなりの声が、また、わたしのまわりに集まってきた。
客席の暗がりのどこかで、誰かが、小さくうなずいた気がした。
演奏会のあと、わたしは、椅子を自分でたたんで、片づけた。
来週の木曜も、自分で並べよう、と思った。
いちばん早く来て、半分の円を、一つずつ並べる。
真ん中の椅子も、自分の手で、並べよう。
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