台所の丸椅子
誰もいない真ん中に、座る場所があった

朗読で聴く
第一章 四十四年の台所
七十になった。
海から少し入った小さな町で、夫と二人で暮らしている。
二十六で嫁いで、四十四年になる。
古い家の台所は、細長くて、窓が一つしかない。
その台所の真ん中に、木の丸椅子が一つある。
嫁いだ年に、町の金物屋で買った椅子だ。
背もたれは無い。座るところは、丸くて、少しへこんでいる。
わたしは、その椅子に座って、四十四年、台所に立ってきた。
立ってきた、と言うのは、おかしいかもしれない。
じゃがいもの皮をむくとき、わたしは丸椅子に座った。
ご飯が炊けるのを待つとき、やかんの湯がわくのを待つときも、座った。
座ると、ちょうど、流しにもこんろにも、手が届いた。
背の低いわたしには、立ったままでは、流しが少し高かった。
金物屋のおじさんが、それなら座って使いなさい、と、この椅子をすすめてくれた。
四十四年で、座るところの木は、わたしの形にへこんでいった。
ほかの家族は、誰も、この椅子に座らなかった。
座る理由が、ほかの誰にもなかったからだ。
夫の正夫は、台所には、ほとんど入らない人だった。
お茶がほしいときだけ、茶の間から、おい、と呼んだ。
わたしは、丸椅子から立って、お茶をいれた。
娘の由美が小さいころは、丸椅子の横で、宿題をさせた。
由美は四十二になり、となりの町で暮らしている。
十になる孫の翔太が、ときどき、遊びに来る。
台所の真ん中に丸椅子があって、そこにわたしがいる。
それが、この家の、ふつうの形だった。
朝は五時に起きて、丸椅子に座って、ご飯が炊けるのを待った。
夜は、最後のなべを洗ってから、丸椅子に座って、少しだけ休んだ。
一日の始まりと終わりが、いつも、あの椅子の上にあった。
第二章 八か月
去年の十月、六十九のときだった。
夕方、台所で、急に左の手から力がぬけた。
包丁が流しに落ちて、わたしも、丸椅子のそばに倒れた。
脳梗塞だった。
町の病院から、リハビリの病院にうつって、八か月、家に帰れなかった。
左の手と足が、思うように動かなくなった。
一本ずつ指を曲げる練習を、毎日した。
はしで豆をつまんで、皿から皿へうつす練習もした。
一つうつすのに、最初は、一分かかった。
同じ部屋の人たちは、みんな、家に帰る日を数えていた。
わたしは、帰る日を数えるのが、こわかった。
病院のベッドで、わたしは、家の台所のことばかり考えた。
夫は、ご飯を一度も炊いたことがない。
電話をかけると、夫は、大丈夫だ、なんとかやってる、とだけ言った。
由美は、父さんは、コンビニのお弁当で元気よ、と笑った。
洗濯も、ごみ出しも、父さんが自分でやってるの、と由美は言った。
四十四年、わたしがしてきたことは、八か月で、誰かが代われることだった。
わたしがいなくても、家は回っている。
そう思うと、ほっとして、それから、少しさびしかった。
わたしの場所は、もう、あの家には無いのだと思った。
冬のある日、わたしは由美に頼んだ。
台所の丸椅子、もう捨ててちょうだい。
帰っても、低い椅子には、もう座れないかもしれないから。
由美は、うん、とも、いや、とも言わなかった。
わたしは、施設に入ることも考えはじめた。
夫に、これ以上、手をかけさせたくなかった。
第三章 帰る日
六月の終わりに、家に帰ることになった。
七十の誕生日は、病院の食堂で、迎えた。
由美の車で、家の前に着いた。
玄関の戸を開けると、知らない家のにおいがした。
夫のくつと、新しい杖が、並んでいた。
わたしは、杖をついて、ゆっくり、廊下を歩いた。
台所の前で、足が止まった。
中を見るのが、こわかった。
知らない台所になっていたら、どうしよう。
わたしの物が、片づけられていたら、どうしよう。
戸を開けた。
流しの横には、夫の字で書いた紙が、何枚もはってあった。
見たことのないなべが、こんろの上にあった。
そして、台所の真ん中に、丸椅子があった。
四十四年前と同じ場所に、同じ向きで、置いてあった。
座るところには、新しい座布団が、一枚のっていた。
椅子の上も、まわりの床も、きれいにふいてあった。
捨てなかったのね、とわたしは言った。
夫は、茶の間で新聞を読んでいて、何も言わなかった。
わたしは、丸椅子の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
由美が、うしろで、そっと、鼻をすすった。
第四章 ふかれていた
その夜、由美が、台所で、こっそり教えてくれた。
お母さん、父さんね、毎朝、あの椅子をふいてたのよ。
わたしが捨てようとしたら、さわるなって、どなったの。
翔太が座ろうとしたときも、そこはおばあちゃんのだって、しかったのよ。
父さん、ご飯も作れるようになったの。
あの椅子の横に立って、みそ汁の作り方を、紙に書いて覚えてた。
椅子のある場所から、手が届くように、なべも並べかえてたの。
わたしは、流しの横の紙を、一枚ずつ見た。
だしは、にぼし五つ。とうふは、手の上で切る。
ふるえた字で、そう書いてあった。
ご飯は、水をおこめの上に一センチ。火は、ふいたら小さく。
どれも、わたしが、四十四年、何も考えずにしてきたことだった。
夫は、それを、一つずつ、紙に書いて、覚えたのだ。
夫が、お茶を入れに、台所に入ってきた。
あなた、とわたしは言った。
ずっと、空けておいてくれたのね。
夫は、やかんに水を入れながら、こちらを見ずに言った。
空けておいたんじゃない。
お前の居るところだから、置いといただけだ。
わたしは、丸椅子を見た。
誰もいない真ん中に、座る場所があった。
八か月、そこは、空いていたのではなかった。
わたしの居るはずの場所として、毎朝、守られていた。
第五章 真ん中
次の日の朝、わたしは、丸椅子に、座ってみた。
座布団が、ちょうど、低くなった足の高さを、うめてくれた。
夫が、何回もすわって、高さを合わせたのだと、由美が言った。
座ると、流しにも、こんろにも、手が届いた。
四十四年と、同じだった。
夫が、じゃがいもを三つ、わたしの前に置いた。
左の手でいもを持ち、右の手で、ゆっくり皮をむいた。
時間は、前の三倍かかった。
いもが、手からすべって、床に落ちた。
夫が、何も言わずに拾って、水で洗って、また前に置いた。
夫は、横に立って、何も言わずに、待っていた。
わたしは、むきながら、ふと、茶の間のほうを見た。
茶の間から、台所の真ん中が、まっすぐ見えた。
四十四年、夫は、あそこから、この椅子を見ていたのだ。
おい、と呼ぶとき、夫は、いつも、この真ん中を見ていた。
わたしの背中が、そこにあるのを、確かめていたのだ。
エピローグ
七月の朝、やかんの湯が、わいた。
わたしは、丸椅子に座ったまま、火を止めた。
夫が、湯のみを二つ、台所に持ってきた。
夫は、自分の分の椅子を、茶の間から運んできて、わたしの横に置いた。
台所の真ん中に、椅子が二つ、並んだ。
二人で、湯気の立つお茶を飲んだ。
窓から、朝の光が、丸椅子の上に、まっすぐ落ちていた。
座っていると、この台所が、わたしの台所に戻ってきた。
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