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前に立つ人

日に当たり続けたところが、深い青になっていた

前に立つ人

朗読で聴く

第一章 最後の三月

六十四になった。

この三月で、保育園の園長を辞める。

海の見える丘の上の、古い保育園だ。子どもは、六十人ほどいる。

三十四で保育士としてこの園に来て、三十年になる。

園長になってからは、十八年。

保育士だったころは、毎日、子どもと泥だらけになって遊んだ。

鬼ごっこをして、園庭を走り回った。砂場で山を作り、トンネルを掘った。

夕方には、髪の毛まで、砂だらけになっていた。

園長になってから、わたしは、子どもと遊ばなくなった。

代わりに、事務室の電話の前にいた。

保護者からの苦情の電話。役所からの書類。けがをした子の親への説明。

何かが起きると、わたしが前に出た。

電話を取る前に、深く息を吸う癖がついた。

受話器を置いたあとは、しばらく窓の外を見て、顔の力を抜いた。

保育士たちには、子どもを見ていてもらった。

事務室の窓からは、園庭が見えた。

子どもたちと保育士たちが遊んでいるのを、わたしは、電話を耳に当てたまま見ていた。

窓ガラス一枚が、とても厚く感じられた。

頭を下げるのは、園長の仕事だと思っていた。

前の園長も、そうしていた。わたしは、その背中を見て、園長になった。

ただ、前の園長は、よく笑う人だった。わたしは、笑い方を、どこかに置いてきてしまった。

第二章 硬くなった顔

十八年、頭を下げ続けた。

子どもが転んでおでこを切った日、わたしは、病院で父親に怒鳴られた。

給食に、決められていない食べ物が混ざった日、わたしは、夜中まで保護者に電話をかけた。

保育士の一人が、保護者から理不尽に責められた日も、わたしが代わりに話を聞いた。

いつのまにか、わたしは、怒られても顔色を変えない人になっていた。

家に帰っても、電話が鳴るたびに、体が固くなった。

夫は、もう少し人に任せたらどうだ、と言った。わたしには、任せ方が分からなかった。

保育士たちは、わたしを、怖い園長だと思っているようだった。

休憩室に入ると、笑い声が止まった。

わたしは、それでいいと思っていた。

ただ、ときどき、鏡を見て思った。

この顔は、いつから、こんなに硬くなったのだろう。

子どもたちに、園長先生、と呼ばれても、笑い返す顔がうまく作れなかった。

子どもたちが、わたしの前では、少しだけ静かになるのも知っていた。

それが、いちばん、さみしかった。

保育士だったころのわたしは、よく笑う人だった。

十八年、前に立ち続けて、わたしは、何かを焼き切ってしまったのだと思った。

第三章 辞める理由

辞めることにしたのは、去年の秋だった。

ある保護者との話し合いのあと、事務室で、急に手が震えた。

止めようとしても、止まらなかった。

医者は、少し休んだほうがいい、と言った。

わたしは、休むかわりに、辞めることにした。

辞めると決めた夜、わたしは、十八年分の手帳を、押し入れから出した。

どの頁にも、謝りに行った家の名前と、時刻が書いてあった。

子どもと遊んだことは、どこにも書いていなかった。

次の園長は、外から来る人に決まった。

最後のひと月、わたしは、事務室の机を片づけた。

引き出しの奥から、保育士だったころの写真が一枚出てきた。

泥だらけのわたしが、子どもたちと、大きな口を開けて笑っていた。

この人は、どこへ行ったのだろうと思った。

わたしが育てた保育士たちは、誰も、園長になりたいとは言わなかった。

無理もない、と思った。

わたしの十八年を見ていたら、誰も、こんな仕事はしたくないだろう。

わたしは、前に立つ人を、一人も育てられなかった。

そう思って、三月を迎えた。

最後の朝、わたしは、いつもより早く園に来た。

誰もいない園庭を、一周だけ歩いた。

砂場の砂が、朝露で少し湿っていた。

第四章 送る会

最後の日の夕方、保育士たちが、ささやかな送る会を開いてくれた。

昼には、子どもたちが、大きな紙を持ってきた。園長先生ありがとう、と書いてあった。

字の書けない小さい子は、手形を押していた。

わたしは、ありがとう、と言って受け取ったが、うまく笑えなかった。

遊戯室に、小さなテーブルと、紙コップのお茶が並んでいた。

わたしは、短くあいさつをした。

長いあいだ、厳しいことばかり言って、ごめんなさい。

頭を下げると、遊戯室の後ろの戸が開いた。

入ってきたのは、美穂だった。

十五年前に、この園にいた保育士だった。

いまは、隣の市の保育園で、園長をしているのだという。

美穂は、少し太って、髪を短くしていた。

でも、笑うと、昔のままの顔になった。

美穂は、まっすぐわたしの前に来た。

園長先生、わたし、去年から園長になったんです。

わたしは、驚いて、美穂の顔を見た。

この一年、毎日、先生のことを思い出していました。

第五章 子どもだけ

美穂は、話した。

わたしがここにいたころ、一度、保護者にひどく責められたことがありました。

先生は、何も言わずに、わたしの前に立ってくれました。

わたしは、先生の背中のうしろで、子どもたちと遊んでいました。

前に立ってくれたから、わたしたちは、子どもだけ見ていられたんです。

遊戯室が、しんとした。

若い保育士の一人が、うなずいていた。

わたしも、先生のうしろで、ずっと子どもと遊んでいました、とその保育士は小さな声で言った。

美穂は、続けた。

園長になって、初めて分かりました。

前に立つ人がいるから、うしろの人は、笑っていられる。

先生の顔が硬かったのは、わたしたちが笑っているためだったんですね。

美穂は、鞄から、一冊の手帳を出した。わたしの手帳と、同じ形だった。

先生のまねをして、謝りに行った家を、全部書いているんです。

でも、いちばん後ろの頁には、その日、子どもたちが笑ったことを書くようにしました。

先生が書けなかったぶんを、わたしが書いているつもりです。

わたしは、何も言えなかった。

美穂が、わたしの手を取った。

先生の背中、大きかったです、と言った。

十八年、焼き切ってしまったと思っていた顔だった。

日に当たり続けたところが、深い色になっていた。

その深い色のうしろで、保育士たちは、子どもと笑い合っていた。

そして、そのうちの一人が、いま、自分の園の前に立っていた。

エピローグ

送る会のあと、わたしは、園庭に出た。

夕方の砂場に、子どもが一人だけ残っていた。お迎えが遅れている子だった。

わたしは、その子の隣にしゃがんだ。

何を作ってるの、と聞いた。

お城、とその子は言った。

大きいお城だね、と言うと、その子は、もっと大きくする、と言って、両手で砂をかき集めた。

わたしは、スコップを借りて、お城のまわりに堀を掘った。

その子の母親が来るまで、二人で、お城を守る堀を、どんどん深くした。

その子が、声を立てて笑った。

わたしも、笑っていた。

十八年ぶりの、泥だらけの手だった。

迎えに来た母親が、園長先生、泥だらけですね、と驚いた。

ええ、とわたしは言った。最後の日ですから。

ソウルミッション358

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