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先生のピアノ

手放した物が、毎日使われていた

先生のピアノ

朗読で聴く

第一章 黒いピアノ

七十四になった。

城下町の古い住宅地で、一人で暮らしている。

三十年、この家の六畳の部屋で、子どもたちにピアノを教えた。

黒い、古いアップライトのピアノだった。二十五のとき、父が退職金の一部で買ってくれた。

生徒は、多いときで二十人いた。

ドの位置も分からない幼稚園の子が、六年たって、ショパンをひけるようになる。

レッスンの始めに、生徒は、ピアノのふたを自分で開ける。

終わったら、柔らかい布で鍵盤をふいて、ふたを閉める。それが、わたしの教室の決まりだった。

その六年を、わたしは、毎週、同じ六畳の部屋で見てきた。

六十四の冬、凍った坂道で転んで、右の手首を折った。

手術をして、骨はついた。でも、指が、思うように動かなくなった。

速い曲は、もう弾けなかった。生徒の前で、お手本が弾けない。

わたしは、教えるのをやめた。

その春、ピアノを、楽器店に引き取ってもらった。

トラックが六畳の部屋から運び出していくのを、わたしは、玄関で見送った。

畳には、ピアノの脚の跡が、四つ、くっきりと残った。

その跡を隠すように、わたしは、六畳の部屋に小さな座卓を置いた。それからは、その部屋で、新聞を読むだけになった。

朝のラジオから、ピアノの曲が流れると、わたしは、ダイヤルを回して、ほかの番組にした。

第二章 やめていった子

ピアノを手放してから、わたしは、自分が音楽を捨てたのだと思っていた。

三十年、子どもたちに、続けることの大切さを言ってきた。

その本人が、手首一つで、やめてしまった。

そして、もう一つ、ずっと胸に残っていることがあった。

拓海という男の子のことだ。

四歳から習いに来て、筋のいい子だった。でも、十二のとき、急に練習をしなくなった。

ある日のレッスンで、わたしは、きつく言った。

練習しないなら、もう来なくていい。

拓海は、黙って楽譜をしまって、帰っていった。

それきり、来なくなった。

あとで、拓海の家が、そのころ、父親の仕事のことで大変だったと聞いた。家で練習できる状態ではなかったのだ。

わたしは、何も知らずに、あの子を追い出した。

謝る機会もなかった。拓海の家は、その年のうちに、町を離れた。

拓海がやめたあと、わたしは、レッスンのたびに、あの子の来ていた曜日の、空いた時間を見た。

そのたびに、自分の声を思い出した。

ピアノを手放したとき、わたしは、拓海のことを思い出した。

あの子からピアノを取り上げたわたしが、今度は、自分のピアノを手放した。それで、帳尻が合ったような気がした。

第三章 一通の手紙

この秋、一通の手紙が届いた。

差出人は、山あいの村の、小さな分校だった。

知らない名前の先生からだと思って、封を開けた。

便箋の最後に、拓海、と書いてあった。

先生、ご無沙汰しています。四十四になりました。いまは、この分校で教えています。

五年前、町の楽器店で、古い黒いピアノを見つけました。

ふたの裏の、小さな傷で、先生のピアノだと分かりました。ぼくが七つのとき、筆箱を落としてつけた傷です。

先生は、何も言わずに、指でなでて、いいのよ、と言ってくれました。

村の人たちにお願いして、分校に入れてもらいました。

先生のピアノ、毎朝、鳴ってます。

一度、聞きに来てもらえませんか。

手紙には、写真が一枚、入っていた。木の床の教室に、黒いピアノが置かれていた。

ふたのうえに、子どもたちの描いた絵が並んでいた。

わたしは、手紙を持ったまま、六畳の部屋の、脚の跡の前に座りこんだ。

第四章 朝の分校

月曜の朝、バスを二本乗りついで、山あいの村に行った。

分校は、川沿いの、木造の小さな校舎だった。

校庭の端に、大きな銀杏の木があって、葉が黄色くなりはじめていた。

玄関を入ると、廊下の奥から、ピアノの音が聞こえた。

たどたどしい、きらきら星だった。

教室の後ろの戸から、そっとのぞいた。

黒いピアノの前に、小さな女の子が座っていた。

そのまわりに、九人の子どもたちが、順番を待って並んでいた。

拓海が、ピアノの横に立っていた。わたしが覚えている十二の顔が、そのまま大人になっていた。

授業の前に、毎朝、一人ずつ、一曲弾くんです、と拓海は言った。

上手でも、下手でもいい。毎朝、弾く。

子どもたちは、弾き終わると、自分で柔らかい布で鍵盤をふいた。それから、次の子に、椅子をゆずった。

わたしの教室の決まりだった。拓海は、それを、そのまま、ここの子たちに教えていた。

この五年、このピアノが鳴らなかった朝は、一日もありません。

手放した物が、毎日使われていた。

わたしが音楽を捨てたと思っていた十年、黒いピアノは、この村で、毎朝、子どもたちの指を受け止めていた。

ふたの裏には、あの小さな傷が、そのまま残っていた。

第五章 あの日のこと

子どもたちが校庭に出ていったあと、わたしは、拓海に、謝った。

あのとき、事情も知らずに、来なくていいなんて言って、ごめんなさい。

拓海は、少し笑った。

あの日、先生に言われて、悔しくて。

家ではピアノが弾けなかったから、毎朝、学校の音楽室で弾いてたんです。誰もいない朝の七時に。

来なくていいって言われたから、自分で行く場所を探した。

だから、毎朝弾くのが、ぼくの癖になったんです。

先生、ふたは自分で開けなさいって言ったでしょう。あれが好きだったんです。

自分で開けて、自分で閉める。だから、誰もいない朝でも、自分でひきに行けた。

ここの子たちにも、それをやってもらってる。

わたしは、言葉が出なかった。

窓の外の校庭から、子どもたちの声が聞こえていた。

あの日、わたしが手放したと思っていた子は、自分で毎朝の場所を作っていた。

そして、わたしが手放したピアノを、毎朝の場所にしてくれていた。

教え子を一人、なくしたと思ってきた。それなのに、その子は、九人の子どもたちに、わたしの教室の決まりを渡していた。

拓海が、ピアノのふたを開けた。

先生、一曲、弾いてもらえませんか。ゆっくりでいいので。

エピローグ

わたしは、三十年座ってきたのと同じ高さの椅子に、腰をおろした。

右の手首は、少し、こわばっていた。

ゆっくりの曲にした。拓海が四つのときに、最初に弾いた練習曲だった。

鍵盤は、少し黄ばんで、ところどころ、子どもたちの指の形にすり減っていた。

指は、昔のようには、動かなかった。

それでも、黒いピアノは、わたしの指を、昔と同じ重さで受け止めた。

弾き終えると、校庭から戻ってきた子どもたちが、戸口で拍手をした。

拓海は、その曲を知っていた。黙って、うなずいていた。

拓海は、村の人が週に一度、調律の人を呼んでくれるのだと話した。

ピアノの横の小さな箱に、村の人たちが少しずつお金を入れているのだという。

帰りのバスで、わたしは、手帳を開いた。

来週の月曜の欄に、分校、と書いた。

家に帰ると、六畳の部屋の座卓をどけて、畳の脚の跡を、久しぶりに見た。四つの跡は、十年たっても、まだそこにあった。

ソウルミッション358

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