← あなたの魂のテーマを探す に戻る

檜のまな板

手放した物が、毎日使われていた

檜のまな板

朗読で聴く

第一章 置いてきた物

七十になった。

港の町のはずれの、古いアパートで、一人で暮らしている。

朝は、近くの水産加工の工場で、魚の骨を抜く仕事をしている。もう二十年になる。

四十のとき、わたしは、家を出た。

夫と、八つの息子を置いて。

夫の家は、町の通りで定食屋をやっていた。わたしは、嫁に来てから十年、その店の台所に立った。

朝の四時に起きて、だしを取った。昼は、とんかつと魚の煮つけと、日替わりの定食を出した。

夜は、ご飯を炊きながら、息子の宿題を見た。

翔太は、台所の隅の丸椅子に座って、わたしがねぎを刻むのを見るのが好きだった。

とん、とん、とん、と、口で真似をして、笑った。

大きくなったら、おれも、これで切る、と言った。

しゅうとめとは、最後まで、うまくいかなかった。夫は、間に立とうとしなかった。

ある冬の朝、わたしは、小さな鞄一つで、駅に向かった。

前の晩、翔太の寝顔を見ながら、朝ご飯のおかずだけは、作っておいた。卵焼きと、ほうれん草のおひたしだった。

それが、あの台所でわたしが作った、最後の食事になった。

息子の翔太は、まだ眠っていた。

台所には、嫁入りのときに母がくれた、檜のまな板を置いてきた。

毎日、それで、ねぎを刻み、魚をおろした。

持って出る余裕は、なかった。持って出る資格も、ないと思った。

第二章 消された三十年

それから、三十年、息子に会わなかった。

最初の何年かは、手紙を書いた。返事は、一度も来なかった。

届いていなかったのかもしれない。届いて、読まれなかったのかもしれない。

どちらでも、わたしには、何も言う権利がなかった。

五年目に、手紙を書くのをやめた。

それからは、誕生日が来るたびに、翔太の歳を数えた。十五になった。二十になった。三十になった。

数えるたびに、もう会う資格はないと、自分に言い聞かせた。

あの家の台所のことは、思い出さないようにした。

思い出すと、檜のまな板が、目に浮かんだ。

わたしが出ていった日に、きっと、裏の焼却炉で燃やされたのだろうと思った。

わたしと一緒に、あの家から、消されたのだと。

それでいい、と思った。わたしは、あの家から、自分で出ていった人間だ。何かを残してきたと思うほうが、厚かましい。

工場で、毎日、魚の骨を抜いた。

包丁は、もう何年も、握っていなかった。アパートの台所には、小さなまな板と、果物用の小刀しかなかった。

第三章 定食屋

この春、昔の店の近所に住んでいた人と、町の病院で、ばったり会った。

その人は、わたしの顔を、しばらく見てから、言った。

ご主人、去年、亡くなったのよ。

翔太くんが、お店を継いでるわよ。

わたしは、何も言えなかった。

ひと月、迷った。

それから、ある昼、帽子を深くかぶって、通りの定食屋に入った。

店の作りは、三十年前と、ほとんど同じだった。のれんだけが、新しくなっていた。

カウンターのいちばん端に座って、日替わりの定食を頼んだ。

運ばれてきたのは、魚の煮つけと、ご飯と、味噌汁だった。

味噌汁の上に、細かく刻んだねぎが浮いていた。

一口飲んで、わたしは、お椀を置いた。だしの取り方が、わたしのやり方と同じだった。

奥の台所で、背の高い男の人が、包丁を使っていた。

顔は、よく見えなかった。

でも、音で、分かった。

とん、とん、とん、と、ねぎを刻む音。

檜の、少しやわらかい、低い音だった。

わたしは、箸を持ったまま、動けなくなった。

第四章 半分の厚さ

お会計のとき、その人は、レジの前に出てきた。

三十八になった、翔太だった。

代金を受け取ったあと、翔太は、少し黙ってから、言った。

母さんだろ。入ってきたときから、分かったよ。

わたしは、うなずくことしか、できなかった。

声を出したら、三十年分の何かが、一度にこぼれてしまいそうだった。

ちょっと、奥に来てよ。

翔太は、のれんの奥の台所に、わたしを入れた。

台所は、昔より少しだけ広くなっていた。古いガスの台が、新しいものに替わっていた。

調理台の真ん中に、あのまな板があった。

檜の色は、すっかり飴色になっていた。

厚さは、わたしが置いてきたときの、半分ほどになっていた。

毎年、年の暮れに、削り直してるんだ、と翔太は言った。

父さんが、そうしろって言ったんだ。

母さんが出ていった日に、父さんは、これを焼却炉の前まで持っていって、そのまま、台所に戻ってきた。

これは、お前の母さんのだ。捨てるな。毎日、使え。

それから、父さんは、一日も欠かさずに、これで切った。

母さんのことは、ほとんど話さなかった。でも、年の暮れにこれを削るときだけは、毎年、同じことを言った。

母さんの切り方は、まっすぐだった、って。

父さんが倒れてからは、おれが使ってる。

毎朝、これで切ってるんだ。

手放した物が、毎日使われていた。

わたしが消されたと思っていた三十年、檜のまな板は、あの台所の真ん中で、毎朝、ねぎを受け止めていた。

第五章 削られた跡

翔太は、まな板の端を、指でなぞった。

母さんがいなくなって、しばらく、夜中に台所に来て、これを抱いて寝てたんだ。

母さんの包丁の跡が、いっぱい残ってたから。

削るたびに、その跡は、薄くなっていった。

中学のころには、もう、ほとんど消えてた。

でも、毎朝、これで切ってると、跡が消えても、ここにあるって思えたんだ。

おれが料理人になったのは、たぶん、このまな板のせいだよ、と翔太は少し笑った。

わたしは、まな板に、手を置いた。

ひんやりとして、それから、少しずつ、手のひらの熱が移っていった。

わたしは、三十年、自分の手は何も残さなかったと思っていた。工場で魚の骨を抜く手は、誰の顔も見ない手だった。

三十年前に置いてきたのは、まな板だけではなかった。

毎朝、だしを取り、ねぎを刻み、息子に朝ご飯を食べさせた、わたしの手の毎日だった。

それを、夫と息子は、捨てずに、毎朝、使い続けていた。

わたしは、ごめんね、と言った。

翔太は、首を横に振った。

謝るより、明日の朝、来てよ。ねぎ、切ってほしいんだ。母さんの切り方、覚えてないから。

父さんは、まっすぐだったって言うけど、おれ、まっすぐに切れたこと、一回もないんだ。

エピローグ

次の朝、わたしは、店が開く前に、通りの定食屋の裏口を開けた。

台所には、だしの匂いが、もう立っていた。

翔太が、まな板の前を、黙って空けてくれた。

わたしは、三十年ぶりに、包丁を握った。

ねぎを一本、まな板に置いた。

とん、とん、とん。

薄くなった檜は、昔より少しだけ高い音で、それでも、同じように、包丁を受け止めた。

翔太が、横で、その音を聞いていた。

まっすぐだ、と翔太は小さく言った。父さんの言ってたとおりだ。

わたしは、手を止めずに、二本目のねぎを置いた。三十年、骨を抜いてきた指が、少しずつ、昔の高さを思い出していった。

刻んだねぎを、小皿に寄せると、翔太は、それを味噌汁の鍋に落とした。

店の前で、最初のお客さんが、のれんの下をくぐる音がした。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所