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雨の記録

一本ずつの線が、灰色になっていた

雨の記録

朗読で聴く

第一章 一行

七十六になった。

アメリカの真ん中の、どこまでも平らな麦畑で暮らしている。

父から継いだ畑だ。納屋が二つと、まっすぐな道が一本ある。

妻のルースは、三十二年前に死んだ。息子のダニエルは四十八で、州の大学で、水の研究をしている。

二十六の夏から、わたしは、毎晩、雨を書いてきた。

夕方六時に、畑のまんなかの雨量計まで歩いていく。筒の中にたまった雨を読む。

家に戻って、ノートに一行書く。

日付と、雨の量と、その日の気温。

それだけだ。

五十年、一日も欠かさなかった。

始めたのは、父がそうしていたからだ。父は、雨を知らない者に、麦は作れない、と言った。

わたしは、それを、ただ続けた。

夏の嵐の夜は、雷の合間に走っていった。冬の吹雪の夜は、納屋から家まで張ったロープをつたって歩いた。

熱を出して寝こんだ日も、上着を二枚重ねて、雨量計まで行った。

ルースは、あきれて笑った。雨は、あなたが見なくても降るのに、と。

わたしも、そう思った。それでも、六時になると、足が勝手に外に出た。

第二章 母さんが死んだ夜

ルースが死んだのは、ダニエルが十六の、秋の終わりだった。

病気が分かってから、半年もたたなかった。

病院から帰ってきたのは、夕方の五時過ぎだった。

家の中は、静かすぎた。

台所には、ルースが朝に焼いたパンが、布をかけたまま残っていた。

ダニエルは、台所の椅子に座って、動かなかった。

六時になって、わたしは上着を着て、外に出た。

雨量計まで歩いて、筒の中を読んだ。

その日は、少しだけ雨が降っていた。

家に戻って、ノートに一行書いた。

ダニエルが、それを見ていた。

母さんが死んだ夜も、書くんだね。

ダニエルの声は、震えていた。

わたしは、何も言えなかった。なぜ書いたのか、自分でも分からなかった。

ただ、書かないと、何かが崩れてしまう気がした。

ダニエルは、立ち上がって、自分の部屋に入った。扉の閉まる音がした。

その晩、わたしたちは、パンに手をつけなかった。

第三章 天気を書くだけの人生

ダニエルは、十八で家を出た。

出ていく前の晩、言った。

父さんの人生は、天気を書くだけだ。毎日、同じ。何も起きない。

灰色の人生だよ。ぼくは、ああはならない。

ダニエルは、シカゴの大学に行った。

駅まで送っていった車の中で、二人とも、ほとんど口をきかなかった。

電話は、年に二度だった。感謝祭と、クリスマスに。

話すのは、麦の出来と、向こうの寒さのことだけだった。

ダニエルが大学を出て、シカゴの会社に勤めたことも、何年かして辞めたことも、わたしは、ずいぶんあとになってから知った。

聞けばよかったのかもしれない。でも、何を聞けばいいのか、分からなかった。

わたしが息子に話せることは、その日の雨の量くらいしかなかった。

わたしは、毎晩、雨を書き続けた。

ダニエルの言う通りだと思った。

わたしの人生には、何も起きなかった。麦を植えて、刈って、雨を書いた。

日照りの年も、大水の年もあった。それも、ノートの上では、ただの一行だった。

妻が死んだ夜にさえ、雨を書いた男だ。

息子が離れていったのも、仕方がないと思っていた。

ノートは、納屋の二階の棚に、たまっていった。

一冊を書き終えるたびに、ひもで束ねて、前の一冊の隣に立てた。誰に見せるつもりもなかった。

第四章 一枚の図

この夏、ダニエルが帰ってきた。

大学の車で、一人だった。

ノートを、見せてほしいんだ、と言った。

わたしは、納屋の二階に案内した。棚に、五十冊近いノートが並んでいた。

ダニエルは、それを一冊ずつ、車に積んで持っていった。

車に積みながら、ダニエルは、一冊ずつ表紙をなでていた。

何に使うのか、わたしは聞かなかった。ダニエルも、言わなかった。

車が見えなくなってから、からっぽになった棚の前に、しばらく立っていた。

五十年の棚は、思っていたより、ずっと小さかった。

ひと月たって、ダニエルは、また来た。

その日も、夕方近くだった。ダニエルは、筒のように丸めた紙を、大事そうに抱えていた。

台所のテーブルに、大きな紙を一枚広げた。

父さんの五十年の雨を、全部、一枚に並べたんだ。

紙には、細い縦の線が、端から端まで、びっしりと並んでいた。

一本が、一日だという。

近くで見ると、一本ずつの線だった。

少し離れて見ると、ただ、静かな灰色の帯に見えた。

この郡で、五十年、一日も切れていない記録は、これしかないんだ。

ダニエルは、言った。

ぼくの研究は、全部、この灰色から始まってる。

この灰色があるから、どの年が日照りで、どの年が大水だったか、はっきり分かる。

一本だけ見ても、何も分からない。全部がそろって、初めて、地面の水がどう動いてきたかが見えるんだ。

それから、帯の、ある一か所を指さした。

三十二年前の、秋の終わりの日付だった。

帯は、そこでも、途切れていなかった。

第五章 途切れなかった線

ダニエルは、しばらく黙っていた。

それから、言った。

母さんが死んだ夜に、父さんが雨を書いたこと、ずっと許せなかった。

でも、シカゴで、何もかもうまくいかなかった年があった。

仕事もなくして、一人で、部屋から出られなかった。

そのとき、思ったんだ。今ごろ、六時だ。父さんは、雨量計の前に立ってる。

毎晩、そう思った。

それだけが、ぼくの中で、途切れない線だった。

一日も、途切れていなかった。

わたしは、紙の上の灰色を見ていた。

一本ずつの線が、灰色になっていた。

何も起きない毎日だと思っていた。

その何も起きない毎日が、遠い町で、息子の足もとを、黙って支えていた。

ルースが死んだ夜に書いた一行も、その灰色の、一本だった。

あの夜、なぜ書いたのか、いまなら少し分かる。

全部が崩れた日にも、変わらないものが一本あれば、人は、そこにつかまっていられる。

わたしは、それを、息子に言葉で渡せなかった。線で渡していたのだ。

ダニエルは、テーブルの上の紙を、ゆっくりと丸めた。

この図は、大学の廊下に貼ってあるんだ、と言った。学生たちは、遠くから見て、ただの灰色の帯だと思う。近づいて、一本ずつの線だと気づいて、みんな、しばらく黙るんだ。

エピローグ

その日の夕方、六時になって、わたしは上着を取った。

ダニエルも、立ち上がった。

二人で、まっすぐな道を、畑のまんなかまで歩いた。

道の両側で、刈り取りの近い麦が、風に同じ向きに倒れていた。

空は、端から端まで、薄い雲におおわれていた。

雨量計の筒をのぞくと、少しだけ、雨がたまっていた。

家に戻ると、ダニエルが、ノートを開いた。

ぼくが書いてもいいかな。

わたしは、うなずいた。

ダニエルは、日付と、雨の量と、気温を書いた。

鉛筆を持つ手つきが、若いころのルースに、少し似ていた。

わたしの字より、少し小さな字だった。

その一行も、ほかの一行と同じ、細い線だった。

わたしは、それを、しばらく見ていた。

五十年の灰色の、いちばん端に、新しい一本が加わった。

ソウルミッション358

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