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十分間のバス

乾いてから、縁が見えた

十分間のバス

朗読で聴く

第一章 逃げた日

六十九になった。

アメリカの北西部の、雨の多い小さな町に住んでいる。

この春、三十年運転したスクールバスを、降りた。

乗せた子どもは、数えきれない。

夫は、五年前に死んだ。娘は、ニューメキシコで小学校の先生をしている。

バスを運転する前、わたしは、病院の救急病棟の看護師だった。

三十八の冬、夜勤の明け方に、七つの女の子が運ばれてきた。

凍った道で、車がスリップしたのだという。

手を尽くしたが、その子は、助からなかった。

わたしは、その子の手を、最後まで握っていた。小さな手だった。

わたしは、その朝、更衣室で、制服を脱いで、二度と病院に戻らなかった。

ロッカーには、名札と聴診器を残したままだった。

看護師長には、手紙で辞めると伝えた。

十五年勤めた病院だった。

理由は、書けなかった。

書こうとすると、ペンを持つ手が止まった。

ただ、もう、あの扉の前に立てなかった。

扉が開くたびに、あの朝の、冷たい空気が入ってくる気がした。

第二章 にじんだ三十年

半年、家から出られなかった。

カーテンを閉めた部屋で、あの子の手の冷たさばかり思い出していた。

夫は、何も聞かなかった。

毎朝、コーヒーをいれて、黙って台所のテーブルに置いていった。

春になって、新聞の求人欄で、町のスクールバスの運転手の募集を見た。

夫が、台所のテーブルに、そのページを開いて置いておいたのだった。

朝と夕方だけの仕事だった。

人の命を預からなくていい仕事だと、そのときは思った。

本当は、子どもたちの命を預かる仕事だったのに、そのときは、そう思えなかった。

わたしは、それから三十年、黄色いバスを運転した。

冬は、夜明け前に車庫へ行って、エンジンを温めた。

朝の六時半に車庫を出て、町はずれの農場から、川沿いのトレーラーハウスまで、子どもたちを拾っていく。

夕方は、同じ道を逆に回って、一人ずつ、家の前で降ろした。

毎朝、同じ道を、同じ時間に走った。

子どもたちの名前と、降りるバス停と、好きな歌を、全部覚えた。

看護師の仲間とは、連絡を取らなくなった。

病院の前の道は、遠回りしてでも、通らないようにした。

わたしは、あの冬の朝から、逃げたのだと思っていた。

バスの運転手になったのは、逃げた先だと。

人に聞かれると、前は病院で働いていた、とだけ答えた。

三十年は、あの朝の涙が、にじんで広がったままの年月だと思っていた。

病院の前を通らずに済む、遠回りの道のような年月だと。

第三章 最後の朝

最後の運転の日、子どもたちが、バスの中に、手書きの旗を飾ってくれた。

ありがとう、と、色鉛筆で大きく書いてあった。

わたしは、いつものように、町はずれから順に、子どもたちを拾った。

学校に着いて、全員を降ろしたあと、校門の前に、一人の女の人が立っていた。

雨上がりで、校庭の水たまりに、空が映っていた。

四十くらいの、紺色の制服を着た人だった。

夜勤明けなのか、目の下に、少し影があった。

胸に、病院の名札がついていた。

覚えていますか、と、その人は言った。

メリッサです。川沿いのトレーラーハウスの。

わたしは、その名前を、しばらく思い出せなかった。

わたしは、思い出した。

窓の向こうで、雨に濡れながら手を振っていた、小さな姿を。

いつも、髪をとかさないまま、走ってくる女の子だった。

小さな妹を二人、両手に引いていた。

第四章 十分間

メリッサは、言った。

わたし、毎朝、遅れたでしょう。

母が、夜通し飲んでいて、朝、起きられなかった。

父は、いなかった。

わたしは、妹たちに服を着せて、自分は顔も洗わずに、バス停まで走った。

靴下が片方ないまま、走った朝もありました。

そのころの運転手さんは、時間になると、待たずに行ってしまった。

でも、あなたは、待ってくれた。

ほかの子たちが文句を言っても、あなたは、もうすぐ来るから、って言ってくれた。

毎朝、十分間。

わたし、腕時計を見るあなたの横顔を、窓から見てたんです。

雨の日も、雪の日も、エンジンをかけたまま、待っていてくれた。

わたしが走ってくるのが見えると、ドアを開けて、おはようって言ってくれた。遅いって、一度も言わなかった。

わたしは、そのことを、ほとんど覚えていなかった。

三十年のうちの、毎朝の十分間だった。

十分間待つのは、わたしにとって、当たり前のことだった。

運転日誌にも、書いたことはなかった。

遅れてくる子には、たいてい、理由がある。

救急病棟で、それを、いやというほど見てきた。

遅れたことを叱られた子が、どんな顔をするのかも。

メリッサは、続けた。

あのバスに乗れたから、わたしは、学校に行けた。

学校に行けば、朝ごはんの代わりに、牛乳が飲めた。

学校に行けたから、看護学校に行けた。

学校の先生が、奨学金のことを教えてくれたんです。

いま、隣の市の病院の、救急病棟で働いています。

十年になります。運ばれてくる子どもの家族が、遅れて来ても、わたし、急がせないんです。

あなたが看護師だったって、去年、町の人から聞きました。

それで、どうしても、お礼を言いたくて。

メリッサは、少し笑った。それから、わたしの手を取った。冷たい手だった。

第五章 乾いてから

その晩、わたしは、車庫に戻した最後のバスの、運転席に座っていた。

誰もいない座席の列が、暗がりの中に、まっすぐ並んでいた。

雨が、フロントガラスを流れていた。

三十年、わたしは、自分は逃げたのだと思ってきた。

あの朝の涙が乾かないまま、ハンドルを握ってきたのだと。

救急病棟から、あの冬の朝から。

バスの三十年は、あの朝の涙が、にじんだままの年月だと。

でも、そうではなかった。

乾いてから、ふちが見えた。

わたしは、逃げた先で、毎朝、十分間、待っていた。

三十年、雨の日も、雪の日も。

救急病棟で覚えたことを、バス停の前で、黙って続けていた。

逃げたのではなく、場所を変えて、同じことをしていたのだ。

急がせないこと。待つこと。名前を呼ぶこと。

その十分間が、一人の女の子を、救急病棟へ運んでいった。

わたしが逃げ出した扉の、向こう側へ。

あの朝の涙は、三十年かけて乾いて、はっきりとした形を見せていた。

エピローグ

次の週、わたしは、隣の市の病院へ行った。

三十一年ぶりに、救急病棟の扉の前に立った。

消毒液の匂いが、あのころと同じだった。

足が、少し震えた。

それでも、今度は、扉の前から動かなかった。

扉が開いて、メリッサが、紺色の制服で出てきた。

わたしの顔を見て、走ってきた。あのころと同じ走り方だった。

わたしは、手に持ってきたものを渡した。

三十年、バスの運転席の横に下げていた、古い腕時計だった。

看護師だったころ、脈を測るのに使っていた時計だった。

秒針のついた、古い銀色の時計だった。

十分間を数えるのにも、ずっと、これを使っていたのよ。

メリッサは、時計を手首に巻いて、少し泣いた。

わたしも、泣いた。今度の涙は、すぐに乾いた。

それから、救急病棟の扉の向こうへ、戻っていった。

ソウルミッション358

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