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泣いた日

乾いてから、縁が見えた

泣いた日

朗読で聴く

第一章 三十七年

七十になった。

山あいの町で、一人で暮らしている。

夫は八年前に死んだ。子どもは二人とも、都会で暮らしている。

三十七年、町の中学校で、国語を教えた。

定年の日、職員室の机を片づけながら、わたしは、一つの日のことだけを考えていた。

それから十年、その日のことは、ほとんど思い出さないようにして暮らしてきた。

三十五年前、教室で、泣いた日のことだ。

三十七年の教師の暮らしの中で、あの日だけは、誰にも話したことがなかった。

わたしは、三十五で、二年生の担任をしていた。

教師になって十二年目で、自分ではもう、一人前のつもりでいた。

クラスに、和也という、体の小さな男の子がいた。

和也は、クラスの何人かから、毎日、からかわれていた。

おとなしくて、休み時間は、いつも一人で図書室にいた。

上靴を隠され、机に落書きをされ、給食の牛乳を、こぼされた。

和也は、そのたびに、黙って雑巾を取りに行った。

わたしは、気づいていた。

和也は、からかわれても、黙って、うつむいているだけだった。

何度も、注意をした。

でも、からかいは、止まらなかった。

注意すると、その日だけ静かになり、次の日には、また始まった。

わたしは、どうしていいか、分からなかった。

第二章 黒板の前で

ある日の帰りの会で、和也の机の中から、破れたノートが出てきた。

和也が、母親に買ってもらったばかりのノートだった。

表紙が、二つに裂けていた。

和也は、何も言わずに、それを机の中に戻した。

そのとき、わたしの中で、何かが切れた。

教室の後ろで、誰かが、小さく笑った。

わたしは、黒板の前で、泣き出した。

こらえようとしたが、止まらなかった。

教師が、生徒の前で、泣いたのだ。

何を言ったのか、よく覚えていない。

和也の母親が、パートの帰りに、文房具屋で選んでくれたノートだと、聞いていた。

あなたたち、それでも人間なの、と言ったような気がする。

声が震えて、最後は、何も言えなくなった。

生徒たちの顔が、涙でにじんで、一つも見えなかった。

わたしは、教室を飛び出して、職員室にも戻らず、校舎の裏で、一人で泣いた。

教頭先生に、あとで、ひどく叱られた。

わたしは、すみませんでした、と頭を下げることしかできなかった。

生徒の前で感情的になるのは、教師として、いちばんやってはいけないことだ、と。

その通りだと思った。わたしは、何も言い返せなかった。

第三章 にじんだ三十五年

次の日から、わたしは、そのクラスの前に立つのが、こわかった。

生徒たちの顔を、まっすぐ見られなかった。

和也へのからかいがどうなったのか、わたしは、ちゃんと見ていなかった。

見るのが、こわかった。

教室では、黒板のほうばかり向いて、授業を進めた。

三月になって、そのクラスは、何もなかったように、三年生に上がっていった。

離任式の日も、わたしは、そのクラスの列のほうを見られなかった。

わたしは、あの日を、教師としての、いちばん恥ずかしい日だと思ってきた。

ほかのことは、たいてい、はっきり覚えている。

でも、あの日のことだけは、涙でにじんで、形が分からなかった。

生徒たちが、どんな顔をしていたのかも、思い出せなかった。

思い出そうとすると、胸が苦しくなって、やめた。

三十五年、あの日は、わたしの中で、濡れたままだった。

乾かないまま、ずっと、胸のどこかに、張りついていた。

第四章 同窓会

この秋、知らない番号から、電話があった。

あのときの二年三組の、同窓会の幹事です、と男の人が言った。

健一です、と名乗った。わたしは、その名前を、はっきり覚えていた。

先生にも、ぜひ来ていただきたいんです。

わたしは、断ろうとした。

あの日の教室に、もう一度戻るような気がした。

でも、男の人は、言った。

わたしが黙っていると、電話の向こうで、少し笑う気配がした。

和也も来ます。先生に、会いたいって。

駅前の小さなホテルの宴会場に、四十九になった生徒たちが、三十人近く集まっていた。

和也は、背の高い、日に焼けた男の人になっていた。

わたしを見つけると、まっすぐ歩いてきて、深く頭を下げた。

市の消防署で、救急隊の隊長をしているのだという。

二十年、救急車に乗ってきたのだという。

乾杯のあと、和也が、マイクの前に立った。

先生、覚えてますか。先生が、黒板の前で泣いた日のこと。

会場が、少し静かになった。

わたしは、うつむいた。

やっぱり、覚えられていたのだと思った。

あの日、先生が教室を出ていったあと、誰も、何も言わなかったんです。

しばらくして、いちばんぼくをからかってた健一が、ぼくの席に来て、ノート、ごめん、って言った。

次の日から、からかいは、止まりました。

一人、また一人と、ぼくに話しかけてくるようになったんです。

大人が、本気で泣くのを、みんな、初めて見たんです。

先生が出ていったあと、教室は、しんとしていました。誰も、笑わなかった。

会場のどこかで、健一くんが、照れたように頭をかいていた。

電話をくれた幹事の健一くんだった。

和也は、続けた。

マイクを持つ和也の手は、救急隊の人らしく、大きくて、落ち着いていた。

ぼく、救急の仕事で、泣きそうになると、あの日の先生を思い出すんです。

泣いていいんだ、本気なら、って。

和也の声が、少し詰まった。会場の何人かが、目を押さえていた。

第五章 乾いてから

帰りのタクシーの中で、わたしは、窓の外の暗い山を見ていた。

会の終わりに、生徒たちが一人ずつ、わたしと握手をしていった。

三十五年、わたしは、あの日を、恥ずかしい日だと思ってきた。

教師として、いちばんやってはいけないことをした日だと。

涙でにじんで、形も分からない日だと。

でも、そうではなかった。

乾いてから、ふちが見えた。

あの日、濡れたまま流した涙は、三十五年かけて乾いて、はっきりとした形になっていた。

からかいが止まった日。和也が、救急隊の隊長になる道の、どこかにあった日。

健一くんが、自分から謝りに行った日。

わたしがにじませたまま閉じこめていた日を、生徒たちは、くっきりとした形で、持っていてくれたのだ。

恥ずかしい日ではなかった。あの教室で、いちばん本気だった日だった。

エピローグ

次の週、和也から、手紙が届いた。

封筒の中に、古いノートが一冊、入っていた。

表紙が破れて、テープで、ていねいに貼り合わせてあった。

あの日のノートです、と、和也の字で書いてあった。

健一と二人で、貼りました。

ずっと、取っておきました。

わたしは、ノートを開いた。

最初のページに、中学二年の和也の、小さな字の日記があった。

中の紙は、どこかで濡れたのか、少し波打っていた。

乾いた紙の、波のふちを、わたしは、指でなぞった。

三十五年前、あの教室で、誰かが泣いたあとのような波だった。

それから、ノートを、本棚のいちばん手の届く場所に立てた。

窓の外の山は、雨上がりで、くっきりしていた。

ソウルミッション358

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