にじんだ宛名
乾いてから、縁が見えた

朗読で聴く
第一章 喫茶店
六十六になった。
海沿いの小さな町で、花屋をやっている。
駅の裏の、間口の狭い店だ。朝は四時に起きて、いちばから花を仕入れてくる。
店を始めたのは、四十五のときだ。
それまでのわたしは、自分のことを、何も決めない女だった。
二十二で、勤め先の上司の紹介で結婚した。それも、自分で決めたのかどうか、よく分からない。
着る服も、住む家も、夕飯の献立も、夫が決めた。
子どもはいなかった。それも、二人で話し合って決めたことではなかった。
夫は、声を荒らげる人ではなかった。
ただ、わたしが何かを決めようとすると、静かに、それは違う、と言った。
わたしは、そのたびに、決めるのをやめた。
決めないでいれば、間違えることもない。そう思うようにしていた。
二十年、そうやって暮らした。
四十一の秋、駅前の喫茶店で、典子と会った。
年に一度、典子の誕生日に、二人で会うのが決まりだった。
典子は、高校のときからの友だちだった。
背が高くて、思ったことをすぐ口に出す子だった。
わたしとは正反対で、だから、ずっと一緒にいられたのだと思う。
わたしは、いつものように、夫の話をした。
家の壁紙を、夫が勝手に決めた話だった。笑い話のつもりだった。
典子は、しばらく黙って聞いていた。
それから、コーヒーのカップを置いて、言った。
窓の外では、雨が降りはじめていた。
あなた、自分のことを、何一つ、自分で決めてないじゃない。
そのままでいいの。
典子の声は、静かだった。怒っているのではなく、悲しそうだった。
第二章 にじんだ二十五年
わたしは、席を立った。
何か言い返そうとして、何も出てこなかった。
店を出て、雨の中を、駅まで歩いた。
傘は、喫茶店に置いてきてしまった。
涙なのか雨なのか、分からなかった。
友だちだと思っていたのに、と思った。
いちばん言われたくないことを、いちばん言われたくない人に言われた。
本当のことだったから、なおさら、許せなかった。
それきり、典子とは会わなかった。
喫茶店の代金も、典子に払わせたままだった。
電話がかかってきても、出なかった。
年賀状も、出さなくなった。
典子からの年賀状は、何年か届いて、それから、来なくなった。
次の年の春、わたしは、夫と別れた。
自分で決めた、初めてのことだった。
夫は、それは違う、と言った。わたしは、もう、やめなかった。
小さなアパートを借りて、駅の裏の花屋で働きはじめた。
初めの一年は、水仕事で手が荒れて、夜中に何度も痛みで目が覚めた。
それでも、どの花をどこに並べるかを自分で考えるのは、楽しかった。
三年後、その花屋を、主人から買い取った。
年を取った主人が店を閉めると言ったとき、わたしが続けます、と自分で言った。
忙しくて、典子のことを思い出すことは、少なくなった。
思い出さないようにしていたのかもしれない。
思い出すと、あの雨の日の、ぼやけた悔しさだけが、浮かんできた。
典子が何と言ったのかさえ、はっきり思い出せなくなっていた。
あの喫茶店の日のことは、わたしの中で、ずっと、にじんだままだった。
第三章 訪ねてきた人
この夏、店に、若い女の人が来た。
三十くらいの、背の高い人だった。
花を買いに来たのではなかった。
店先のバケツの花を、ひとつずつ、懐かしそうに見ていた。
典子の娘です、と言った。
目もとが、高校のころの典子に、そっくりだった。
母は、先月、亡くなりました。
病気が分かってから、半年でした。
わたしは、持っていた鋏を、作業台の上に置いた。
手が、少し震えていた。
娘さんは、鞄から、一通の封筒を出した。
母の机の引き出しから、出てきたんです。
宛名が、あなたでした。でも、出さないままでした。
切手も、貼ってありました。
封筒のおもては、宛名の字が、にじんでいた。
水をこぼしたあとのように、インクが、輪になって広がっていた。
第四章 ふち
わたしは、店の奥の丸椅子に座って、封筒を開けた。
封は、のりが乾いて、指で簡単にはがれた。
便箋が一枚、入っていた。
日付は、あの喫茶店の日の、次の日だった。
典子の、大きくて、まっすぐな字だった。
あの日、言いすぎた。ごめんね。
でも、あなたは、自分で決められる人だよ。
高校のとき、進路の紙を、誰にも相談しないで、一人で書いて出した。
わたしは、それを、ずっと覚えてる。
あなたなら、大丈夫。
便箋の下のほうにも、涙のあとのような、小さなにじみがあった。
それだけ書いて、名前があった。
読み終えて、わたしは、もう一度、最初から読んだ。
娘さんが、言った。
母は、この手紙を書いて、出せなかったって、言ってました。
出したら、あなたが、自分で決めたことにならないからって。
あなたが、自分で決めるのを、見ていたかったんだって。
娘さんは、そこで、少し声を詰まらせた。
この町に、花屋を開いたって、人づてに聞いて、母は、泣いて喜んでいました。
わたしは、便箋を持ったまま、しばらく、動けなかった。
店の前を、学校帰りの子どもたちが、笑いながら通り過ぎていった。
第五章 乾いてから
その晩、わたしは、店を閉めてから、封筒を明かりにかざした。
にじんだインクの輪は、乾いて、くっきりとしたふちになっていた。
濡れていたときには、ただの染みに見えたはずの輪だった。
二十五年、わたしは、あの喫茶店の日を、ぼやけた悔しさとして覚えてきた。
思い出すたびに、涙でにじんで、典子の顔も見えなかった。
友だちに、いちばん痛いことを言われた日だと。
でも、そうではなかった。
乾いてから、ふちが見えた。
あの日は、わたしが、初めて自分で決めた日の、始まりだった。
にじんで見えなかったのは、わたしが泣いていたからだった。
典子の言葉が、わたしの背中を押した。
あの日の悔しさがなければ、わたしは、たぶん、いまもあの家で、それは違う、と言われていた。
そして典子は、言いすぎたことを謝る手紙も、出さずに取っておいた。
二十五年、引き出しの中で、乾くのを待つように。
わたしが、自分で歩き出すのを、黙って見ているために。
あの日、濡れたまま置かれた言葉は、二十五年かけて乾いて、いま、はっきりと形を見せていた。
エピローグ
次の朝、わたしは、店でいちばん白い花を選んだ。
典子の家は、隣の町だった。
娘さんに案内されて、仏壇の前に座った。
写真の典子は、高校のときと同じ顔で笑っていた。
しらががまじっていたが、口もとは、あのころのままだった。
わたしは、花を置いて、手を合わせた。
自分で決めたよ、と、心の中で言った。
四十二で、あの家を出たこと。四十五で、この店を自分のものにしたこと。
帰りぎわ、娘さんが言った。
母が、いつも言ってました。あの子は、決めたら、まっすぐだからって。
わたしは、店に戻って、シャッターを上げた。
店先のバケツに、新しい水を張った。
その日の花の並べ方は、誰にも相談しないで、一人で決めた。
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