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物干しの歌

塗りつぶした中に、白が残っていた

物干しの歌

朗読で聴く

第一章 何もしなかった三年

五十二になった。

郊外の住宅地で、夫と二人で暮らしている。

娘が一人いる。美月は、二十四になった。

来月、結婚する。

相手は、大学の同級生だった、穏やかな青年だ。

美月は、保育士をしている。小さい子どもが好きなのだという。

美月が四つから七つまでの三年間、わたしは、心の病気だった。

朝、起き上がることができなかった。

体のどこも悪くないのに、布団が、鉛のように重かった。

食事を作ることも、話をすることも、できなかった。

夫が会社を早く切り上げて、美月を保育園に迎えに行った。

夕飯は、夫の母が、毎日、届けてくれた。

義母は、玄関で鍋を渡すと、わたしの部屋のドアの前で、少しだけ立ち止まって、帰っていった。

責めることばを、一度も聞いたことがなかった。

わたしは、カーテンを閉めた部屋で、天井を見ていた。

時計の音だけが、一日じゅう、聞こえていた。

何度も、自分がいなくなったほうが、この家のためになると思った。

美月が、ドアの前で、ママ、と呼んでも、返事ができなかった。

小さな足音が、ドアの前で止まって、しばらくして、遠ざかっていった。

その足音を、わたしは、二十年たっても忘れられなかった。

三年たって、少しずつ、よくなった。

病院に通い、薬を飲み、ある朝、カーテンを開けることができた。

外は、思っていたより、ずっと明るかった。

それから二十年近く、わたしは、あの三年を、なかったことにして暮らしてきた。

第二章 塗りつぶした三年

あの三年のことを、わたしは、誰にも話さなかった。

美月にも、話さなかった。

話せば、謝らなければならない。

謝れば、あの三年が、本当にあったことになる。

わたしの中で、あの三年は、真っ黒に塗りつぶしてあった。

思い出しそうになると、台所に立って、何かを作りはじめた。手を動かしていれば、黒いまま、閉じておけた。

何もしなかった三年。

娘の髪を結ったことも、絵本を読んだことも、ほとんどなかった三年。

娘の、いちばん小さいころを、わたしは、まるごと渡しそこねた。

美月の小さいころの写真を見ると、胸が苦しくなった。

どの写真にも、わたしは写っていない。

しちごさんの写真も、保育園の運動会の写真も、夫と義母が撮ったものだった。

写っているのは、夫と、夫の母と、美月だけだった。

よくなってからのわたしは、そのぶんを取り返すように、何でもした。

お弁当は、毎日、作り、授業参観は一度も休まなかった。

美月が熱を出せば、仕事を休んで、一晩じゅう、そばについていた。

それでも、あの三年は、埋まらないと思っていた。

美月が笑うたびに、この子のいちばん小さい笑顔を、わたしは知らないのだと思った。

第三章 式の打ち合わせ

先週、美月が、式の打ち合わせから帰ってきた。

台所のテーブルで、式の進行表を広げた。

式場の人と、何時間も相談してきたのだという。

席次表には、夫の母の名前も入っていた。九十になる義母は、車椅子で来てくれるらしい。

お母さん、ひとつ、お願いがあるの。

花嫁の手紙のあとに、曲を流すんだけど。

お母さんの歌を、流したいの。

わたしは、意味が分からなかった。

わたしは、歌など、歌ったことがない。

わたしの歌って、何。

美月は、少し笑った。

その笑い方は、夫に似ていた。

覚えてないの。物干しの歌。

わたしは、首を振った。

本当に、何も思い出せなかった。

第四章 物干しの歌

美月は、ゆっくり話した。

お茶の湯気の向こうで、言葉を選ぶように、ゆっくり話した。

わたしが四つか五つのころ、お母さん、ずっと寝てたでしょう。

わたしは、息が止まりそうになった。

美月は、あの三年のことを、知らないと思っていた。

小さすぎて、覚えていないだろうと、ずっと思いこもうとしてきた。

知ってたよ。覚えてるもん。

でもね、週に一回だけ、お母さん、起きてきたの。

晴れた日の朝、ベランダで、洗濯物を干したの。

わたしのシャツと、靴下と、ハンカチだけ。

干しながら、小さい声で、歌を歌ってた。

お母さんの声を聞くのは、その日だけだった。

知らない歌。お母さんが作ったみたいな、短い歌。

ラとシとドと、何かの、五つの音。

わたし、ベランダの戸のところに座って、それを聞いてたの。

干し終わると、お母さん、わたしの頭を一回なでて、また寝に行った。

それが、週に一回。

わたし、その日が、すごく好きだった。

保育園でも、先生に、今日はママが歌う日だった、って話したんだよ。

美月は、小さな声で、その歌を歌った。

五つの音を、くり返すだけの、短い歌だった。

わたしは、思い出した。

忘れていたのではなく、塗りつぶした下に、しまいこんでいたのだと分かった。

どうしても起き上がれない週の中で、一日だけ、体が動く朝があった。

そういう朝は、美月の小さなシャツだけを、干しに行った。

ほかのことは、何もできなかった。

それすら、自分では、何の意味もないことだと思っていた。

歌っていたことは、覚えていなかった。

干し終わると、すぐに布団に戻ったことしか、覚えていなかった。

美月は、言った。

あの三年は、真っ暗だったけど、あの朝だけは、明るかったの。

保育士になったのも、少しは、あの歌のせいかもしれない。

泣いてる子に、あの五つの音を歌うと、泣きやむんだよ。

だから、あの歌を流したいの。

第五章 白く残ったもの

その晩、わたしは、ベランダに出た。

物干しざおが、暗い空の下に、一本、横に渡っていた。

二十年、毎日のように洗濯物を干してきた、同じ物干しざおだった。

二十年近く、わたしは、あの三年を、真っ黒だと思ってきた。

何も渡さなかった三年だと。

娘から、いちばん大事な時間を、奪った三年だと。

でも、そうではなかった。

塗りつぶした中に、白が残っていた。

週に一度の、小さなシャツと、五つの音の歌。

わたしが、何でもない朝だと思っていた朝。

わたしが自分で塗りつぶしたつもりの三年の中に、美月は、その白を、ずっと持っていた。

わたしが渡しそこねたと思っていた時間の中で、わたしは、渡していたのだ。

ほかに何もできなかった朝に、それだけは、渡せていた。

白は、小さかった。でも、塗りつぶされてはいなかった。

エピローグ

式の日、花嫁の手紙のあと、会場に、短い歌が流れた。

美月が、スマートフォンで、わたしの声を録音しておいたものだった。

録音し直すかと聞くと、美月は、このままがいい、と言った。少し、声がかすれていた。

前の晩に、台所で、一度だけ歌わされたのだ。

五つの音を、くり返すだけの、短い歌だった。

会場の人たちは、何の歌か分からずに、静かに聞いていた。

美月は、白いドレスで、少し泣いていた。

車椅子の義母が、隣の席で、ハンカチを目に当てていた。

夫が、隣で、わたしの手を握った。

あの三年、夫は、毎週、晴れた日の朝、会社に遅れて行っていた。

ベランダの戸の向こうで、わたしの歌を、聞いていたのだという。

わたしは、それも、知らなかった。

ソウルミッション358

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