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つけの帳面

塗りつぶした中に、白が残っていた

つけの帳面

朗読で聴く

第一章 黒い十年

五十八になった。

県庁のある町で、図書館の司書をしている。

夫とは十年前に別れた。子どもはいない。

毎朝、同じバスに乗って、同じ席で本を読む。きちんとした暮らしだと思っている。

父は、この春、八十四で死んだ。

父には、わたしが八つから十八までの十年間があった。

わたしは、その十年を、頭の中で黒く塗りつぶしてきた。

父は、小さな印刷所をやっていた。

町の商店のちらしや、学校の文集を刷る店だった。

インクの匂いのする父の手が、わたしは好きだった。

わたしが八つの年に、取引先がつぶれて、印刷所も手放した。

それから父は、昼間から酒を飲むようになった。

仕事は、続かなかった。

印刷所の機械は、知らない人たちがトラックで運んでいった。

父は、それを、店の前で黙って見ていた。

母は、スーパーのレジと、夜の弁当工場を掛け持ちした。

家には、いつも、借金の取り立ての電話がかかってきた。

父は、夜になると、大きな声を出した。

わたしは、布団をかぶって、朝を待った。

誕生日も、運動会も、楽しかった記憶は一つもなかった。

少なくとも、わたしは、そう覚えていた。

十八で、わたしは、家を出た。

それから四十年、あの十年のことを、誰にも話さなかった。

思い出しそうになると、心の中で、黒く塗った。

小学校の卒業アルバムも、中学の制服の写真も、実家に置いてきた。

あの家に関わるものは、一つも手元に置かなかった。

第二章 塗りつぶす

父は、六十を過ぎてから、酒をやめた。

母と二人で、小さなアパートで暮らした。

わたしは、年に一度、正月にだけ顔を出した。

父は、わたしの顔を見ると、いつも何か言いかけて、やめた。

そのたびに、わたしは、台所に立って、お茶をいれに行った。

わたしも、何も聞かなかった。

母が先に死んで、父は一人になった。

それでも、わたしは、正月にしか行かなかった。

電話も、こちらからかけたことは、ほとんどなかった。

父の声を聞くと、あの夜の大きな声を思い出しそうになった。

冷たい娘だと、自分でも思った。

でも、あの十年を思い出すくらいなら、冷たいほうがよかった。

父が入院したとき、看護師さんに、娘さんですか、と聞かれた。

はい、とだけ答えた。

病室で、父は、わたしの手を見て、少し泣いた。

細くなった父の手には、もう、インクの色は残っていなかった。

すまなかった、と言った。

わたしは、うなずいただけだった。

何に対して謝っているのかを聞けば、あの十年を開けることになる。

わたしは、それが、こわかった。

あの十年は、全部、黒いままだった。

第三章 商店街

葬式のあと、父のアパートを片づけた。

荷物は、ほとんどなかった。

着替えが少しと、古いラジオと、母の写真が一枚。

八十四年の暮らしが、段ボール箱三つに収まった。

押し入れの奥に、古い菓子箱が一つあった。

開けると、中に、手のひらほどの、すり切れた帳面が入っていた。

表紙に、大きく、山下菓子店、と書いてあった。

山下菓子店は、わたしが子どものころ、商店街のかどにあった店だ。

ガラスのケースに、ショートケーキとシュークリームが並んでいた。

子どものわたしには、高くて、ほとんど買ってもらえなかった店だった。

わたしは、帳面を持って、商店街へ行った。

四十年ぶりに歩く商店街だった。

店は、もう、たい焼き屋になっていた。

ガラスのケースは無くなって、鉄の焼き型が、店先に並んでいた。

店先で、白い前かけの、腰の曲がったおばあさんが、焼き型を返していた。

山下さんの奥さんだった。

わたしが帳面を見せると、おばあさんは、目を丸くした。

九十を過ぎているはずなのに、焼き型を返す手は、少しも止まらなかった。

まあ、これ、うちのつけの帳面よ。

どうして、あなたが持ってるの。

わたしは、父の娘です、と言った。父の名前を言うと、おばあさんは、ああ、と小さく声を出した。

第四章 ケーキ 一

おばあさんは、店の奥の丸椅子に、わたしを座らせた。

そして、帳面を、一枚ずつめくった。

あなたのお父さんね、あのころ、お金がなくて、つけで買ってたの。

毎年、十二月の、同じ日に来たのよ。

雪の日も、来たよ。傘も差さずに、頭を白くしてね。

わたしは、帳面をのぞきこんだ。

どの年の十二月にも、同じ日付が書いてあった。

ケーキ、一。

それだけが、十年分、並んでいた。

ほかの買い物は、一つも書いてなかった。

わたしの誕生日だった。

払いは、いつも、半年くらい遅れたけど、一度も踏み倒さなかった。

お酒くさい日もあったけどね、ケーキを選ぶときだけは、まじめな顔してた。

いちごの、いちばん小さいの。

いつも、閉店まぎわに来てね。いちばん小さいのが残ってるか、心配そうに、ケースをのぞいてた。

娘が、いちごが好きだからって。

わたしは、思い出した。

毎年、誕生日の夜、目が覚めると、枕元に、小さな箱が置いてあった。

中に、いちごののった、小さなケーキが一つ。

誰が置いたのか、わたしは、母だと思っていた。

母は、何も言わなかった。わたしも、聞かなかった。

あの家で、それを口にしたら、消えてしまいそうな気がしたのだ。

だから、わたしは、それも、黒く塗った十年の中に、一緒にしまいこんでいた。

おばあさんは、帳面の最後のページを見せた。

十年目の日付の横に、細い字で、全部済み、と書いてあった。

あの人、最後の分を払いに来たとき、言ったのよ。

これだけは、ちゃんとしておきたかったって。

第五章 白いところ

その晩、わたしは、父のアパートで、帳面を開いていた。

四十年、わたしは、あの十年を、真っ黒だと思ってきた。

酒と、怒鳴り声と、取り立ての電話だけの十年だと。

でも、そうではなかった。

塗りつぶした中に、白が残っていた。

年に一度の、小さなケーキ。

その白は、わたしがどんなに塗っても、消えていなかった。

塗った上から、小さくのぞいていた。

覚えていなかっただけで、ずっと、あの十年の中にあった。

四十年、思い出さないようにしてきたのに、いちごの赤だけは、すぐに思い出せた。

父は、あの真っ黒な十年の中で、一年に一度だけ、白いところを残そうとしていたのだ。

自分では、もう、何もちゃんとできなかった十年の中で。

すまなかった、と言った父に、わたしは、うなずいただけだった。

ケーキ、ありがとう、と言えばよかった。

エピローグ

次の年の十二月、わたしの誕生日に、たい焼き屋へ行った。

おばあさんは、わたしの顔を見て、笑った。

店の奥の冷蔵庫から、小さな箱を出してきた。

今年だけね、と言った。

中に、いちごののった、小さなケーキが一つ入っていた。

わたしは、それを持って、父の墓へ行った。

墓の前に、箱を置いて、ふたを開けた。

冬の、白い光が、いちごの上に当たっていた。

ありがとう、と、わたしは声に出して言った。

四十年ぶんの、遅すぎるお礼だった。

それから、ケーキを半分食べて、半分を置いて帰った。

ソウルミッション358

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