鉄の杭
ぼかさなかった線に、形があった

朗読で聴く
第一章 測る人
七十一になった。
アメリカの北東の、山あいの小さな町に住んでいる。
夫のウォルターは、三年前に死んだ。
ウォルターは、四十年、土地の測量をしていた。
家と家の境、畑と森の境を、測って、図面に引く仕事だ。
朝早く、三脚と機械をトラックに積んで出ていき、日が暮れてから、泥だらけの長靴で帰ってきた。
夕飯のあとは、台所のテーブルで、図面に線を引いていた。
ウォルターは、言葉を飾らない人だった。
結婚する前の晩、ウォルターは、わたしに言った。
ぼくは、思っていないことは言わない。そのかわり、言ったことは、そのとおりだ。
そのとおりの人だった。
新しい服を着て、どう、と聞くと、ウォルターは、青いほうが似合う、と言った。
似合うよ、とは、一度も言わなかった。
わたしは、むっとして、その日は赤いほうを着て出かけた。
鏡に映ったわたしは、たしかに、少し、くすんで見えた。
わたしの作ったパイが焦げていれば、焦げている、と言った。
おいしい日には、おいしい、と言った。それだけだった。
それでも、おいしい、と言われた日のパイは、何年たっても、作り方を覚えている。
友だちの夫たちは、何でも、すてきだね、と言っていた。
わたしは、ときどき、それがうらやましかった。
娘も、子どものころ、パパは、ほめるときも、こわい、と言っていた。
一度くらい、ぼかして言ってくれてもいいのに、と思った。
第二章 境の向こう
この春、隣の家に、新しい人が越してきた。
都会から来た、四十くらいの男の人だった。
越してきて三週間で、男の人は、うちとの境に、杭を打ちはじめた。
杭は、うちの庭の中に、四フィートも入っていた。
白いペンキを塗った、新しい木の杭だった。
杭と杭のあいだには、黄色いひもが張られていた。
その四フィートには、ウォルターが植えたライラックがあった。
毎年、五月になると、薄紫の花が、台所の窓まで匂った。
四十年前、この家を買った春に、ウォルターが植えた木だった。
わたしが、そこはうちの庭です、と言うと、男の人は、書類を見せた。
古い登記の写しだった。線は、ぼやけていて、どこが境なのか、わたしには読めなかった。
男の人は、来月、塀を建てます、と言った。
感じの悪い人ではなかった。ただ、書類の上の線を、信じきっていた。
わたしには、何も言い返せなかった。
四十年住んでいても、自分の庭の端がどこなのか、わたしは知らなかった。
ウォルターは、うちの境のことを、何も話してくれなかった。
測る仕事をしていたのに、自分の家のことは、何も言わなかった。
娘に電話をすると、弁護士に頼んだら、と言われた。
わたしは、ライラックの下に立って、ウォルターが、ここにいてくれたら、と思った。
あの人なら、はっきり言っただろう。
ここからここまでが、うちだ、と。
それが、少しだけ、こわくもあった。
第三章 野帳
その晩、わたしは、ガレージの奥の、ウォルターの棚を開けた。
三年、開けられなかった棚だった。
扉を開けると、ウォルターの長靴の、土の匂いがした。
測量の道具と、野帳と呼ばれる、手のひらほどの手帳が、何十冊も並んでいた。
どの野帳にも、年と、場所が書いてあった。
いちばん端の一冊に、この家の住所があった。
表紙のかどが、すり切れて丸くなっていた。
四十年前の、この家を買った年の野帳だった。
開くと、うちの土地の形が、細い鉛筆の線で引いてあった。
四つのかどに、鉄の杭を打った、と書いてあった。
かどからかどまでの長さが、百分の一フィートまで書いてあった。
線は、どこもぼやけていなかった。
四十年前の鉛筆の線が、昨日引いたように、細く、硬かった。
消して引き直したあとも、一本もなかった。
わたしは、知らなかった。
ウォルターは、一度も、そのことを話さなかった。
話す必要がなかったのだと思う。測って、打って、それで終わりだったのだ。
ウォルターは、誰にも頼まれずに、自分の家の境を測って、杭を打っていたのだ。
第四章 百分の一
次の週、わたしは、町の測量士に来てもらった。
ウォルターの、昔の仕事仲間の息子だった。
若い測量士は、野帳を見て、少し笑った。
ウォルターさんの野帳だ。この人の数字は、誰も疑いません。
父も、よく言ってました。ウォルターの線は、裁判所でも動かないって。
測量士は、機械を据えて、野帳の数字のとおりに、地面を測っていった。
ライラックの根元から、四フィート、隣の家のほうへ寄ったところで、測量士は、しゃがんだ。
金属を探す道具が、短い音を立てた。
わたしは、ライラックの幹に手をついて、それを見ていた。
土を少し掘ると、錆びた鉄の杭の頭が、出てきた。
野帳の数字と、百分の一フィートも違わなかった。
隣の男の人は、それを見て、しばらく黙っていた。
それから、すみませんでした、と言って、自分の杭を抜いた。
黄色いひもを巻き取る音が、静かな庭に、しばらく続いた。
測量士が、帰りぎわに、言った。
ウォルターさんは、ぼかさない人でした。
だから、この人の引いた線の上には、誰でも立てるんです。
わたしは、うなずいた。うなずくことしか、できなかった。
第五章 立てる線
その晩、わたしは、台所のテーブルで、野帳を開いていた。
ウォルターが毎晩、図面に線を引いていた、同じテーブルだった。
四十年、わたしは、ウォルターは、やさしい言い方を知らない人だと思っていた。
ぼかさないのは、冷たいからだと思っていた。
でも、そうではなかった。
ぼかさなかった線に、形があった。
百分の一まで引いた線があったから、わたしは、自分の庭に立っていられた。
青いほうが似合う、と言われたから、わたしは、四十年、青い服を着た。
焦げている、と言われた日があったから、おいしい、と言われた日を、信じられた。
何でも、すてきだね、と言われていたら、どの言葉の上にも、立てなかった。
ウォルターは、思っていないことは言わなかった。
だから、言ったことの上には、全部、立てたのだ。
結婚する前の晩に、あの人は、そう約束していた。
わたしは、その約束の上に、四十年、立っていたのだ。
立っていることにも気づかないくらい、その線は、硬かった。
エピローグ
夏に、孫のリリーが遊びに来た。
十になる、口の達者な子だ。
娘に似て、聞きたいことは、何でもすぐに聞く。
わたしは、リリーを、ライラックの下へ連れていった。
土をどけて、錆びた鉄の杭の頭を見せた。
おじいちゃんが、四十年前に打った杭よ。
リリーは、ふうん、と言って、杭の上に、片足で立った。
ねえ、おばあちゃん、わたしの絵、どう。
リリーは、ポケットから、たたんだ紙を出して、広げた。
わたしは、少し考えてから、言った。
空は、とてもいい。木は、もう少し描いたほうがいい。
リリーは、口をとがらせて、それから、うなずいた。
そして、もう一度、杭の上に、両足でそろえて立った。
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