まっすぐな刃
ぼかさなかった線に、形があった

朗読で聴く
第一章 板場の朝
七十二になった。
四十年、港のある町で、小さな料理屋をやっていた。
カウンターが八席と、奥に座敷が一つの店だった。
五年前に、店を閉めた。妻は、その次の年に死んだ。
いまは、店の二階に、一人で住んでいる。
下の板場は、閉めたときのままにしてある。
まな板も、砥石も、包丁の入った引き出しも、そのままだ。
ときどき、下りていって、流しの前に立つ。何をするでもなく、また上がってくる。
店をやっていたころ、若い者を、何人も預かった。
板前になりたいという十代の子が、知り合いの紹介で、うちへ来た。
朝は、いちばへ一緒に行き、帰ってくると、まず包丁を研がせた。
包丁は、板前の手の続きだ。研げない者に、魚は触らせなかった。
研ぎが終わると、魚をおろさせ、大根をかつらにむかせた。
わたしは、口数の少ない親方だった。
よくできても、ほめなかった。だめなときは、だめだと言った。
妻は、あなたはもう少し、言い方をやわらかくしたら、と、よく言った。
わたしは、言い方を変えたことはなかった。
変え方を、知らなかった。
第二章 向いていない
三十四年前の春、健太という子が、うちに来た。
十九だった。山のほうの町から、一人で出てきた。
まじめな子だった。朝は、誰よりも早く板場に来て、床を洗っていた。
夜は、店の奥の三畳で、遅くまで砥石に向かっていた。
水の音が、二階の寝間まで聞こえた。
ただ、包丁を持つと、手が迷った。
魚に刃を入れる前に、いつも、手が一度止まり、それから、少しずれたところに入った。
身が、ぎざぎざになった。
一年たっても、それは変わらなかった。
わたしは、毎晩、健太がおろした身を、黙って見ていた。
健太も、自分で分かっていたと思う。おろすたびに、まな板の上の身から目をそらした。
ある晩、店を閉めたあと、ほかの若い者もいる前で、わたしは、健太に言った。
お前は、板場には向いていない。
包丁を持つと、手が先に迷う。一年見たが、変わらない。
それから、もう一つ言った。
ただ、お前のといだ包丁は、うちで一番まっすぐ切れる。
健太は、黙って、頭を下げた。
ほかの若い者は、誰も、何も言わなかった。
板場の換気扇の音だけが、いつまでも回っていた。
次の月、健太は、店をやめて、町を出ていった。
見送りには、行かなかった。
朝、三畳をのぞくと、布団がきちんとたたんであった。
砥石が一つ、洗って、棚に立てかけてあった。
第三章 三十四年
それから、わたしは、あの晩のことを、何度も思い出した。
ほかの店の親方は、若い者に、もう少しがんばれば、と言っていた。
そう言われて、十年、二十年、板場に立ち続けた者もいた。
あのとき、もう少しやわらかく言っていれば、と思った。
向いていない、の前に、まだ一年だ、と、ひとこと、つけていれば、と思った。
せめて、二人きりのときに言っていれば、と思った。
みんなの前で言うことはなかった、と思った。
十九の子の道を、わたしが一言で切ったのだと思った。
妻も、あの子は、どうしているかしらね、と、ときどき言った。
わたしは、答えなかった。
答えると、自分のしたことを、もう一度認めることになる気がした。
それからは、若い者に、向いていない、とは言わなくなった。
言わないかわりに、何も言わなくなった。
だめなものを見ても、黙って、自分で直した。
若い者は、どこがだめなのか分からないまま、何年も同じところで止まっていた。
それでも、あの晩のようなことは、二度としたくなかった。
店を閉めるときも、健太のことは、誰にも話さなかった。
ぼかさずに言ったことで、一人の若い者を、遠くへやった。
わたしは、そういう親方だったのだと思っていた。
第四章 研ぎ師
この秋、店の前に、一台の軽トラックが止まった。
荷台に、木の箱と、砥石が、いくつも積んであった。
降りてきたのは、髪に白いものがまじった男だった。
親方、と言った。健太です。
五十三になっていた。
目もとと、まじめそうな口の形は、十九のころのままだった。
健太は、隣の県で、刃物を研ぐ店をやっているのだと言った。
料理屋の包丁も、床屋のはさみも、何でも研ぎます。
二十五年やってます。弟子も、二人います。
トラックの荷台の箱には、新聞紙にくるんだ包丁が、何十本も並んでいた。
親方の包丁、まだ、ありますか。研がせてください。
わたしは、板場の引き出しから、五年しまっていた包丁を出した。
出刃と、柳刃と、薄刃の三本だった。刃には、うっすらと錆が浮いていた。
健太は、板場の流しに砥石を置いて、水を打った。
研ぎはじめると、手は、一度も止まらなかった。
砥石の上を、刃が、同じ角度で、同じ速さで、行って帰ってきた。
三十四年前、店の奥の三畳から聞こえていたのと、同じ音だった。
わたしは、言った。
あのときは、ひどいことを言った。
健太は、手を止めずに、言った。
ひどくなかったです。はっきりしてただけです。
ほかの人は、みんな、もう少しがんばれば、と言いました。
もう少しがんばれば、で、十年迷った人を、何人も見ました。
親方だけが、線を引いてくれた。
むいてない所と、むいてる所の、境目を。
だから、次の日から、研ぎのことだけ考えられたんです。
一番まっすぐ切れる、って言われたのは、生まれて初めてでした。
あれがなかったら、研ぎを仕事にしようなんて、思いもしなかった。
健太は、研ぎ上がった包丁を、光にかざした。
刃と同じです。ぼかした刃は、何も切れない。
第五章 境目
健太がといだ包丁を、わたしは、しばらく持っていた。
刃は、端から端まで、一本の細い光になっていた。
どこにも、ぼやけたところがなかった。
三十四年、わたしは、あの晩、若い者の道を切ったのだと思っていた。
ぼかさずに言ったことが、冷たかったのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
ぼかさなかった線に、形があった。
向いていない、と、一番まっすぐ切れる、が、一本の線で並んでいたから、健太は、その境目に立てた。
もう少しがんばれば、と言っていたら、どちらも、ぼやけていた。
健太は、いまも、板場の端で、迷いながら魚をおろしていたかもしれない。
あの晩、わたしが引いた線の向こう側で、健太は、三十四年、刃を研いできたのだ。
妻に、話してやりたかった。
あの子は、ちゃんと、自分の線の上に立っていた、と。
エピローグ
健太が帰る前に、わたしは、大根を一本、出してきた。
研いでもらった包丁で、かつらにむいた。
刃は、迷わずに入った。
大根が、刃の重さだけで、するすると回った。
向こうが透けるほど薄い白が、一枚の長い帯になって、まな板の上に落ちた。
健太は、それを見て、少し笑った。
親方は、やっぱり、板場に向いてますね。
わたしは、知ってる、と言った。
健太は、声を出して笑った。
軽トラックがかどを曲がるまで、わたしは、店の前に立っていた。
次の日、わたしは、閉めたままだった板場の電気をつけた。
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