← あなたの魂のテーマを探す に戻る

チャコの線

ぼかさなかった線に、形があった

チャコの線

朗読で聴く

第一章 一回で引く

六十一になった。

駅前の商店街で、小さな仕立て屋をやっている。

店は、父が始めた。父は、十年前に死んだ。

間口二間の店で、おもてのガラス戸に、父の名前が白く書いてある。

奥に作業台が一つあって、その上に、いつも裁ちばさみとチャコが置いてある。

父は、言葉の少ない職人だった。

布に型を写すとき、父は、チャコで線を一回だけ引いた。

チャコというのは、布に印をつける、平たい石のような白い道具だ。

父の線は、細くて、まっすぐで、端から端まで、同じ太さだった。

引き直すことは、一度もなかった。

引く前に、父は、布の上で長いこと手を止めていた。

物差しを当てて、目で何度も確かめて、それから、一息に引いた。

わたしは、十六で、父の隣で仕事を覚えはじめた。

わたしの線は、いつも二本、三本になった。

薄く引いて、少しずらして、また引く。そのうち、線は太く、ぼやけた帯になった。

父は、それを見て、言った。

線が揺れるのは、迷っているからだ。迷うなら、布に引く前に迷え。

それだけ言って、自分の仕事に戻った。

わたしは、ぼやけた帯を、指でこすって消した。

父は、客にも、同じように話した。

客が選んだ生地を見て、それは、あなたには合いません、と言った。

その色だと、顔がぼやけます。こちらの紺にしてください。

怒って帰る客も、いた。

そのまま、二度と来なかった客も、いた。

母は、もう少し言い方があるでしょう、と、よく父に言った。

父は、何も答えなかった。

第二章 ぼかす

父が死んで、わたしが店を継いだ。

わたしは、父のようには、言わなかった。

客が生地を選べば、どちらもお似合いですよ、と言った。

寸法を測りながら、少し細く見えますね、と言った。

腹の出た人にも、肩の落ちた人にも、そう言った。

それで、怒って帰る客は、一人もいなくなった。

客は、みんな、にこにこして帰っていった。

わたしも、そのほうが、気が楽だった。

チャコの線も、わたしは、薄く何本も引いた。

あとで、どの線にも合わせられるように。

ぼかしておけば、間違えたことにはならない。

十年、それで店はやってこられた。

ただ、わたしの作った服を着て、二度目に来る客は、少なかった。

一着作って、それきりになる。

一度、三年前に背広を作った若い人を、駅で見かけたことがある。

わたしの作った背広ではなく、量販店の吊るしを着ていた。

肩が合っていなかった。それでも、わたしの背広より、よく似合っていた。

わたしは、声をかけずに、改札を通った。

どこが悪かったのかを、言ってくれる人もいなかった。

わたしも、聞かなかった。

商店街の人は、二代目は人あたりがいい、と言ってくれた。

わたしは、それでいいのだと思っていた。

父のように、人を怒らせる言い方は、冷たいと思っていた。

父が死んだとき、葬式に来た客は、思っていたより、ずっと少なかった。

はっきり言いすぎる人だったから、と、わたしは思った。

第三章 四十二年の上着

この春、八十を過ぎた男の人が、店に来た。

紺の上着を、腕にかけていた。

お父さんに、作ってもらったものです、と言った。

四十二年前です。

上着は、袖口がすり切れ、肘が光っていた。

裏を返すと、内側の縫い代に、白い線が、一本だけ残っていた。

父のチャコの線だった。

仕立てるときに引いた線が、縫い代の内側に、消えずに残っていたのだ。

四十二年たっても、細く、まっすぐで、端から端まで同じ太さだった。

男の人は、店の椅子に座って、言った。

わたしは、本当は、茶色の生地にしたかったんです。

お父さんは、それは、あなたには合いません、と言った。

腹が立ちました。客に向かって、なんだと思った。

でも、紺で作ってもらって、着てみたら、分かりました。

茶色だったら、わたしは、一年で着なくなっていた。

これは、四十二年、着ました。

娘の結婚式にも、妻の葬式にも、これを着ました。

お父さんは、ぼかさない人だった。

だから、どこまでが合って、どこからが合わないか、わたしにも分かった。

第四章 正直に

男の人は、上着をわたしの前に置いた。

これ、まだ、直せますか。

正直に言ってください。

わたしは、上着を手に取って、肘と袖口を、光にかざした。

いつものように、まだ大丈夫ですよ、と言いかけた。

言えなかった。

布は、肘のところで、もう向こうが透けていた。

指で押すと、糸が、力なく、ずれた。

つぎを当てても、次の冬には、別のところがやぶれる。

わたしは、言った。

もう、直せません。

布が、持ちません。

男の人は、黙って、わたしを見ていた。

わたしは、言ってしまってから、手のひらに汗をかいているのに気づいた。

怒って帰られても、しかたがないと思った。

ただ、型を写して、同じ紺で、同じものを作ることはできます。

男の人は、少しして、笑った。

それが、聞きたかったんです。

ほかの店では、まだ着られますよ、とだけ言われました。

それで、どうしていいか、分からなくなっていた。

わたしは、上着の縫い目をほどいて、型を写すことにした。

ほどきながら、父の線を見た。

四十二年前の線は、一本で、迷っていなかった。

第五章 線の形

その晩、店を閉めてから、わたしは、作業台の前に座っていた。

父は、冷たい人だと思っていた。

はっきり言うのは、相手のことを考えていないからだと思っていた。

でも、そうではなかった。

父がぼかさなかったところに、形があった。

あなたには合いません、という一本の線があったから、あの人は、四十二年、同じ上着を着られた。

わたしの、どちらもお似合いですよ、には、線がなかった。

線がないから、客は、どこに立てばいいか分からなかった。

だから、二度と来なかった。

あの若い人も、どこが合わないのか分からないまま、吊るしを選んだのだろう。

わたしは、人を怒らせないかわりに、何も渡していなかった。

わたしは、引き出しの奥から、父のチャコを出した。

かどがすり減って、小さくなっていた。

握ると、父の指の形に、少しへこんでいた。

十六のとき、父がわたしに言ったことを、もう一つ思い出した。

ある晩、わたしの縫った袖を見て、父は、言った。

お前の縫い目は、俺のよりまっすぐだ。

それだけだった。父がわたしをほめたのは、あとにも先にも、その一回だけだった。

わたしは、その一言で、四十五年、この仕事を続けてきた。

ぼかさずに言われたから、疑わずにすんだ。

エピローグ

次の週、紺の生地が届いた。

四十二年前と同じ、少し青みの強い紺だった。

わたしは、写した型を、生地の上に置いた。

父のチャコを持って、息を一つ吐いた。

線を、一回だけ引いた。

引き直さなかった。

細い線が、端から端まで、同じ太さで、紺の上に一本、残った。

仮縫いの日、男の人は、鏡の前で、どうですか、と聞いた。

肩が、少し落ちています。ここを詰めます。

わたしは、そう言った。

男の人は、うなずいた。

四十二年前も、たぶん、こうしてうなずいたのだと思った。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所