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一回、握ってから

離したから、形が残った

一回、握ってから

朗読で聴く

第一章 預かる家

六十八になった。

夫と二人で、古い木造の家に住んでいる。夫は、町の郵便局を勤め上げた。

わたしたちには、子どもができなかった。

四十になった年に、里親の登録をした。

夫と二人で、何度も話し合って決めた。

自分たちの子どもとしてではなく、預かる子どもとして、迎えることにした。

親と暮らせなくなった子どもを、しばらくのあいだ、家で預かる。

親の具合がよくなったり、暮らしが落ち着いたりすれば、子どもは、親のもとへ帰っていく。

それが、いちばんいいことなのだと、最初に教わった。

短い子で三か月、長い子で二年だった。

どの子のことも、名前と、好きな食べ物は、いまでも覚えている。

二十八年で、十四人の子どもを預かった。

一番小さかった子は、一つになったばかりだった。

一番大きかった子は、中学二年の男の子だった。

どの子も、最後には、うちを出ていった。

帰る日が決まると、わたしは、その子の好きなおかずを、毎晩一つずつ作った。

卵焼き、肉じゃが、ハンバーグ。

帰る日の朝は、いつも、玄関の上がり口で、子どもの靴をそろえた。

靴のかかとをそろえて、つま先を外に向けた。

それだけは、毎回、自分の手でした。

迎えの車が来ると、わたしは、子どもの手を引いて、玄関の外まで出た。

そして、手を離した。

子どもは、迎えの人に手を引かれて、車に乗った。

第二章 何も残らない

帰った子どもから、便りが来ることは、ほとんどなかった。

そういう決まりだったし、そのほうがいいのだと、わたしも思っていた。

年に一度、役所から、元気にしています、とだけ知らせが来る子もいた。

子どもには、自分の親がいる。うちは、通り過ぎる家だ。

忘れてもらうほうが、あの子たちのためなのだ、と思うようにしていた。

それでも、ときどき、思った。

あの子たちは、うちのことを、覚えているだろうか。

三か月の子は、たぶん、覚えていない。二年の子でも、小さかった子は、覚えていないだろう。

中学生だった男の子は、帰る日に、お世話になりました、と頭を下げて、振り向かずに行った。

わたしは、毎回、手を離して、見送るだけだった。

車が角を曲がるまで、玄関の外に立っていた。

曲がってしまうと、家の中が、急に広くなった。

引き止めることも、追いかけることも、できなかった。

それが、預かる家の決まりだった。

十四人の子どもが使った茶碗と箸は、台所の棚の奥に、しまってある。

どれも、もう、使う子はいない。

それでも、捨てることはできなかった。

夫は、ときどき、棚の奥を見て、黙って戸を閉めた。

近所の人に、また子どもさんが変わったのね、と言われることもあった。

そうなんです、とだけ答えた。

わたしは、自分たちの二十八年は、何も残らない二十八年だったと思っていた。

預かって、手を離して、それきりだった。

第三章 訪ねてきた人

去年の秋、知らない女の人から、電話があった。

夕飯の支度をしていたときだった。

早紀です、と言った。二十五年前に、半年だけ、お世話になりました。

名前を聞いて、すぐに分かった。

受話器を持つ手が、少し震えた。

五つの冬に来て、桜の咲くころに帰っていった子だった。

よく泣く子で、夜中に、何度も、わたしの布団に入ってきた。

小さな手で、わたしの寝間着の袖を、朝まで握っていた。

帰る日の朝も、泣いて、なかなか靴をはかなかった。

次の日曜、早紀は、玄関に立っていた。

背の高い、髪を短く切った女の人だった。

目もとだけが、五つのころと同じだった。

三十になって、看護師をしているのだと言った。

小さな男の子の手を引いていた。四つになる息子だった。

男の子は、母親の後ろに隠れて、わたしを見ていた。

上がり口に座って、早紀は、家の中を見回した。

変わってないですね、と言った。この、上がり口の木の色。

早紀は、上がり口の木を、手のひらでなでた。

わたし、ここに座って、迎えの車を待ったんです。

足が床に届かなくて、ぶらぶらさせてた。

第四章 一回、握ってから

お茶を出すと、早紀は、少し黙ってから、言った。

おばさんは、たぶん、覚えてないと思うんですけど。

帰る日、おばさんは、わたしの手を引いて、玄関の外まで出てくれました。

車の前で、手を離すとき、おばさん、一回、ぎゅっと握ってから離したんです。

わたし、それを、ずっと覚えてて。

母のところに帰ってから、何年も、母とうまくいかなかったんです。

でも、あの一回だけは、ずっと手に残ってました。

母のところに帰ってからも、こわい夜があると、手を握って、離してみたんです。

一回、ぎゅっと握ってから、離す。

早紀は、自分の手で、それをやってみせた。

そうすると、大丈夫だって、思えたんです。

看護学校の試験の朝も、そうしました。

わたしは、何も言えなかった。

早紀の息子が、母親の膝の上で、わたしの顔をじっと見ていた。

そんなことをしていたとは、自分でも、気づいていなかった。

早紀は、息子の手を取った。

この子にも、そうしてるんです。保育園で別れるとき、一回、握ってから離すの。

病院でも、退院する子どもを見送るとき、そうしてます。

おばさんの、離し方なんです。

わたしは、自分の手を見た。

皺の増えた、ただの手だった。

第五章 離したところ

早紀たちが帰ったあと、わたしは、上がり口に、一人で座っていた。

夕方の光が、玄関の戸のすりガラスから差しこんでいた。

二十八年、わたしは、手を離して、見送るだけだと思っていた。

離したところで、何もかもが、終わるのだと思っていた。

でも、そうではなかった。

離したところで、終わったものは、一つもなかった。

手を離したところに、形が残っていた。

一回、握ってから、離す。

その形が、早紀の手に残り、早紀の息子の手に残り、病院の子どもたちの手に残っていた。

握ったままだったら、何も残らなかった。

あの子は、自分の母親のもとへ、帰れなかった。

離したから、あの子は、自分の家に帰り、その形を、自分の手で使ってきたのだ。

夫が、台所から出てきて、隣に座った。

十四人だな、と夫は言った。

十四の形だね、とわたしは言った。

夫は、何も言わずに、わたしの手を一回、握ってから離した。

エピローグ

この春、わたしたちは、里親の登録を、もう一度、続けることにした。

七十になる前に、もう一人だけ、預かることにした。

夫は、膝が痛いと言いながら、子ども用の踏み台を作り直した。

四月、三つの女の子が、うちに来た。

小さなリュックを、両手で抱えていた。

台所の棚の奥から、小さな茶碗を一つ、出した。

十四人の誰かが、いつか使った茶碗だった。

女の子は、最初の晩、よく泣いた。

わたしは、その子の布団の横で、朝まで起きていた。

いつか、この子も、帰っていく日が来る。

それが、いちばんいいことなのだ。

その朝は、玄関の上がり口で、靴をそろえて、外まで手を引いて出る。

そして、一回、ぎゅっと握ってから、離すのだと思う。

ソウルミッション358

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