← あなたの魂のテーマを探す に戻る

荷台

離したから、形が残った

荷台

朗読で聴く

第一章 離さないからね

六十五になった。

夫と二人で、川沿いの団地に住んでいる。夫は、去年まで、市の清掃局で働いていた。

娘が一人いる。真理子は三十八で、隣の市で、小学校の事務をしている。

夫と、七つになる男の子と、三人で暮らしている。孫の名前は、大地という。

真理子が七つの夏、わたしは、近くの公園で、娘に自転車を教えた。

補助輪を外した、赤い小さな自転車だった。

夏の初めに、駅前の自転車屋で買った。

真理子は、店の前で、一時間も、その自転車から離れなかった。

わたしは、後ろの荷台をつかんで、一緒に走った。

こわい、と真理子は言った。

ハンドルを握る手が、白くなっていた。

大丈夫、離さないからね、とわたしは言った。

本当に、離すつもりはなかった。

何度も転びそうになりながら、公園を、ぐるぐる回った。

荷台をつかんだ手が、汗ですべりそうになった。

腰も、足も、痛かった。

夕方、三回目に回ったとき、わたしは、荷台から手を離した。

自分でも、いつ離したのか、よく分からなかった。

真理子は、そのまま、一人で、公園の端まで走っていった。

そして、振り向いて、わたしがずっと後ろに立っているのを見て、転んだ。

膝をすりむいて、泣きながら、言った。

離さないって、言ったのに。

わたしは、走っていって、真理子を抱き起こした。

ごめんね、とだけ言った。それしか、言えなかった。

第二章 手を離す母

わたしは、あの日のことを、ずっと覚えていた。

離さないと言っておいて、離した。娘に、嘘をついた。

それからも、わたしは、何度も、真理子の手を離してきた。

高校で、東京の大学に行きたいと言ったとき、止めなかった。

夜、台所で、真理子が願書を書いているのを見て、何も言わずに、お茶だけ置いた。

夫は反対したが、わたしは、行きなさい、と言った。

大学を出て、北海道の小学校に勤めると言ったときも、止めなかった。

夫は、一週間、口をきかなかった。

結婚相手を連れてきたときも、何も聞かずに、いいわね、と言った。

相手の人は、北海道の牧場の息子だった。

向こうで暮らすことになる、と言われても、わたしは、そう、とだけ言った。

近所の奥さんたちは、娘さん、遠くに行っちゃって、寂しいでしょう、と言った。

うちの子は、親の言うことなんか聞かないのよ、とわたしは笑った。

でも、本当は、止められなかったのではなく、止めなかったのだ。

行くなと言えば、真理子は、たぶん、残っただろう。

それが、こわかった。

わたしは、いつも、先に手を離す母親だった。

ほかの家のお母さんみたいに、しがみついて、引き止めることができなかった。

冷たい母親だと、真理子は思っているだろうと思っていた。

電話で話すときも、真理子は、いつも用件だけで切った。

わたしも、それ以上、聞かなかった。

あの夕方、公園の端で振り向いた顔を、何度も思い出した。

離さないって言ったのに、と泣いていた顔だった。

第三章 孫の自転車

去年、真理子たちが、北海道から、隣の市に戻ってきた。

大地が七つになった春、真理子から電話があった。

大地に自転車を教えたいの。あの公園で、やってもいい。

日曜の朝、わたしは、夫と一緒に、あの公園に行った。

夫は、膝に手を当てながら、ゆっくり歩いた。

ベンチも、砂場も、あのころのままだった。

すべり台だけが、新しい色に塗り直されていた。

大地の自転車は、青かった。補助輪は、もう外してあった。

真理子が、後ろの荷台をつかんだ。

大地の背中が、少しこわばっていた。

こわい、と大地は言った。

大丈夫、離さないからね、と真理子は言った。

わたしは、ベンチに座って、それを見ていた。

手を出したくなったが、出さなかった。

夫が、隣で、おまえと同じことを言ってるな、と言った。

わたしは、黙って、うなずいた。

真理子は、大地と一緒に、公園を、ぐるぐる回った。

荷台をつかんだ手の形が、あのころのわたしと同じだった。

親指を内側に入れて、指を四本そろえて、下から支えるつかみ方。

わたしは、誰にも教わらずに、そうつかんでいた。

真理子にも、教えた覚えはなかった。

第四章 離したところ

三回目に回ったとき、真理子は、荷台から、手を離した。

大地は、そのまま、一人で、公園の端まで走っていった。

そして、振り向いて、母親がずっと後ろに立っているのを見て、驚いて、足をついた。

転ばなかった。

自分の足で、地面に立っていた。

すごい、と大地は叫んだ。ママ、ぼく、一人で乗れた。

真理子は、手を振ってから、ベンチのほうに歩いてきた。

大地は、もう、二周目に入っていた。

少し、目が赤かった。

わたしの隣に座って、しばらく、大地の背中を見ていた。

お母さん、と真理子は言った。

わたし、あの日のこと、覚えてる。離さないって言ったのに、って泣いたよね。

わたしは、うなずいた。ごめんね、と言いかけた。

でもね、と真理子は続けた。

あれで、わたし、自分で漕げるって分かったの。

お母さんが離したから、分かった。離さないって言ってくれたから、こわくなかった。

両方あったから、乗れたんだと思う。

どっちか一つだったら、たぶん、だめだった。

東京に行くときも、北海道に行くときも、そうだった。

お母さんは、止めなかった。だから、わたし、自分で決めたことにできた。

さっき、大地の荷台を離すとき、ああ、お母さんの離し方だ、って思った。

どこで離せばいいか、手が、知ってたの。

早すぎても、遅すぎても、だめなの。

お母さんは、ちょうどのところで、離したんだよ。

第五章 離したから

帰り道、わたしは、川沿いを、夫と並んで歩いた。

夕方の光が、川の上で揺れていた。

三十年、わたしは、自分を、先に手を離す冷たい母親だと思ってきた。

離したところで、何かが終わったのだと思っていた。

でも、そうではなかった。

手を離したところに、形が残っていた。

荷台をつかむ手の形も、離すときの間も、真理子の中に残っていた。

わたしが教えたのではなかった。

離されたときに、真理子の体が、覚えたのだ。

握ったままだったら、残らなかった。

離したから、真理子は、自分で漕いでいった。

そして、その漕ぎ方の中に、わたしの離し方が、ちゃんと入っていた。

夫が、おまえ、さっき泣いてたろう、と言った。

泣いてないわよ、とわたしは言った。

夫は、そうか、と言って、少し笑った。

エピローグ

次の日曜、大地が、一人で、自転車に乗って、団地まで来た。

真理子が、後ろから、自転車でついてきた。

二人の自転車の音が、団地の壁に響いた。

おばあちゃん、見て、と大地は言った。

団地の前の道を、一人で、まっすぐ走っていった。

真理子は、少し離れて、それを見ていた。

手は、ハンドルの上に置いたままだった。

追いかけたいのを、こらえている顔だった。

わたしは、自分の手を見た。

しわだらけの、六十五の手だった。

親指を内側に入れて、指を四本そろえる形を、そっと作ってみた。

それから、ほどいた。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所