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近道

深く噛まれたところが、いちばん抱いていた

近道

朗読で聴く

第一章 牧草地の向こう

七十四になった。

アメリカの真ん中の、とうもろこしと牧草地ばかりの小さな町に住んでいる。

町のバスの整備工場で、四十年働いた。

スクールバスのエンジンを、何百台も直した。

妻のメグは、去年の冬に死んだ。

息子のダンが一人いて、東の州で、銀行に勤めている。

メグとは、高校のダンスパーティーで知り合った。五十年、一緒に暮らした。

メグは、最後の九年を、町はずれの老人ホームで過ごした。

物忘れが始まって、やがて、わたしの名前も分からなくなった。

最初に忘れたのは、朝のコーヒーに入れる砂糖の数だった。

最後まで覚えていたのは、庭の花の名前だった。

ホームは、うちの裏の牧草地の、ちょうど向こう側にあった。

道路を回っていくと、三キロほどある。

牧草地をまっすぐ横切れば、ずっと近かった。

わたしは、九年、毎日、朝と夕方の二回、その牧草地を横切って、メグに会いに行った。

雨の日も、雪の日も、休まなかった。

冬は、長靴をはいて、膝まで雪に埋まりながら歩いた。

夏は、草が腰まで伸びて、ズボンが朝露でぐっしょりになった。

牧草地には、いつのまにか、一本の道ができた。

わたしの靴が、草を踏み、土を踏み、九年かけて、溝のように深く刻んだ道だった。

第二章 削られた九年

牧草地は、ジョンソンさんの土地だった。

若いジョンソンさんは、ときどき、トラクターの上から、わたしに言った。

おじいさん、そこを通られると、干し草が刈りにくいんだよ。

わたしは、すみません、と言った。それでも、次の朝も、同じところを歩いた。

膝は、九年のあいだに、すっかり悪くなった。

冬の朝は、牧草地の端で、しばらく立ち止まって、膝をさすってから歩き出した。

水曜の夜のボウリングにも、行かなくなった。友だちは、だんだん声をかけてこなくなった。

整備工場の仲間の葬式にも、面会の時間と重なって、行けなかった。

ダンは、電話のたびに言った。

父さん、もう母さんは、父さんのことが分からないんだよ。

毎日行っても、誰が来たのかも覚えてない。父さんの人生が、削れていくだけだ。

わたしも、そう思っていた。

メグは、わたしが部屋に入っても、ほとんど顔を上げなかった。

わたしは、窓の前の椅子の横に座って、天気の話をして、また帰った。

それを、九年、毎日、二回くり返した。

あの道は、わたしが九年かけて、自分の暮らしから削り取った溝だった。

人の牧草地に刻んだ、傷のようなものだった。

九年ぶんの、わたしの足あとだった。

メグが死んだあと、わたしは、あの道を歩かなくなった。

春になったら、ジョンソンさんが、畑を耕して、溝を消すと聞いた。

それでいいと思った。

第三章 春の雨

この春は、雨の多い春だった。

四月の終わりに、何日も続けて、強い雨が降った。

雨が上がった朝、わたしは、裏口から牧草地を見た。

半年、見ないようにしていた牧草地だった。

一本の線が、光っていた。

わたしの刻んだ溝に、雨の水がたまって、牧草地を横切る細い水の道になっていた。

まわりの草は、もう乾き始めていた。

溝だけが、水を抱いていた。

朝日が当たって、細い銀の線のように光っていた。

ジョンソンさんのトラクターも、しばらく、その手前で止まっていた。

五月になると、その線の上にだけ、花が咲いた。

まわりの牧草は、まだ緑一色だった。

青い、小さな、野の花だった。

メグが、庭に植えていたのと、同じ花だった。

チコリという花だと、メグに何度も教わっていた。

九年のあいだに、わたしのズボンの裾や靴の底についた種が、溝に落ちていたのだろう。

水がいちばん長く残ったところに、花がいちばん多く咲いた。

牧草地の真ん中を、青い線が、ホームのほうへまっすぐ伸びていた。

第四章 メグの窓

六月の初め、ホームの看護師のリンダさんから、電話があった。

メグさんの荷物が、まだ少し残っているんです。取りに来てもらえますか。

わたしは、九か月ぶりに、道路を回ってホームへ行った。

溝を歩く気には、まだなれなかった。

リンダさんは、メグの部屋だった窓の前に、わたしを連れて行った。

窓からは、牧草地が見えた。青い線が、まっすぐ、うちの裏口まで続いていた。

メグさんね、とリンダさんは言った。

毎日、夕方になると、この窓の前に椅子を出してもらって、外を見ていたんですよ。

あなたのお名前は、最後のほうは、もう出てこなかった。

でも、牧草地の向こうに、あなたの姿が見えると、いつも、ほら、わたしの道、と言っていたんです。

わたしの道。あれは、わたしの道よ、って。

ほかの人たちも、窓からあの道を見ていました。

雪の日には、あなたが来るかどうか、賭けをしていた人もいたんですよ。

今日はまだかしら、って、みんなで待っていたんです。

わたしは、窓の前に立ったまま、しばらく動けなかった。

リンダさんが、メグの残したカーディガンを、わたしの手にのせた。

ポケットに、乾いたチコリの花が一本、入っていた。

わたしが、夏の日に、道の途中で摘んで持っていった花だった。

帰り道、ジョンソンさんが、牧草地の端にトラクターを止めていた。

帽子を取って、奥さんのこと、残念だったね、と言った。

あの線は、耕さないことにしたよ、と言った。

うちの子どもたちが、あそこを歩いて、ホームのばあさんたちに手を振るんだ。

第五章 深く刻まれたところ

その夕方、わたしは、半年ぶりに、あの道を歩いた。

溝の底は、まだ少し湿っていて、青い花が、足もとで揺れていた。

膝は、相変わらず痛かった。

それでも、一歩ずつ、溝の底を踏んで歩いた。

九年、わたしは、この道を、自分の暮らしから削り取った溝だと思ってきた。

人の土地に刻んだ、傷だと思ってきた。

でも、深く刻まれたところは、何かを失ったところではなかった。

深く踏まれたところほど、雨を長く抱いていた。

浅いところは、すぐに乾いた。

道路の脇の、誰も歩かないところには、一本の花も咲いていなかった。

九年かけて刻んだ溝だけが、水を抱え、種を抱え、花を咲かせていた。

そして、窓の向こうで、名前を忘れた人に、わたしの道、と呼ばれていた。

削られていったのは、九年ではなかった。

九年ぶん、深く刻まれていたのだ。

エピローグ

いまも、週に一度、わたしは、あの道を歩いて、ホームへ行く。

メグのいた部屋には、別の人が住んでいる。

ハロルドという、九十になる元の農夫で、わたしと、牧草の話をする。

ハロルドは、朝、窓から、わたしの来るのを見ているそうだ。

ダンが、夏休みに、孫を連れて帰ってきた。

二人で、溝の横に並んで立った。

孫娘は、青い線を見て、これ、なに、と聞いた。

おじいちゃんの近道だよ、とダンが言った。

それから、少し黙って、母さんの道だ、と言い直した。

孫娘は、線の上を、ホームのほうへ走っていった。

ときどき立ち止まって、青い花を一本ずつ摘んでいた。

窓の向こうで、誰かが、手を振っていた。

ソウルミッション358

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