← あなたの魂のテーマを探す に戻る

手形

深く噛まれたところが、いちばん抱いていた

手形

朗読で聴く

第一章 食堂の手

七十になった。

夫と二人で、駅前の小さな食堂を四十五年やってきた。

カウンターが八つと、四人がけの机が三つ。朝の十時から、夜の九時まで。

昼どきには、近くの工場の人たちで、席が全部うまった。

夜は、会社帰りの人が、一人で定食を食べていった。

夫が鍋の前に立ち、わたしが洗い場に立った。

二年前、夫の膝が悪くなって、店を閉めた。

常連さんたちが、最後の日に、花を持ってきてくれた。

わたしは、花束を受け取るときも、手を花の陰に隠した。

娘の美紀は四十三で、隣の町に住んでいる。九つになる男の子がいて、翔という。

わたしの手は、四十五年、水と洗剤の中にあった。

一日に、皿とどんぶりを何百枚洗ったか分からない。

冬になると、指の先から割れた。

割れ目は、年ごとに深くなった。

手のひらにも、指の節にも、黒い筋のような線が、何本も走るようになった。

寒い朝には、割れ目から血がにじんで、ふきんが赤くなった。

夜は、クリームをすりこんで、綿の手袋をはめて寝た。

クリームは、薬局でいちばん安いものを、大きな缶で買った。

缶は、一冬で空っぽになった。

四十五年、ほとんど毎晩、そうしてきた。

それでも、割れ目は、一本も消えなかった。

春になると少し浅くなり、冬になると、また同じところが割れた。

第二章 隠してきた手

わたしは、この手を、人に見せないようにしてきた。

写真を撮るときは、いつも、両手を背中に回した。

指輪は、はめなかった。はめても、割れた指には似合わなかった。

美紀の結婚式では、白い手袋をした。

夏だったので、少し変だと思われたかもしれない。

美紀の手を取って歩くとき、手袋ごしでも、割れ目が布に引っかかるのが分かった。

美紀は、何も言わなかった。

店でも、お釣りを渡すときは、手のひらを見せないように、指先でつまんで渡した。

きれいな手をした若いお客さんの前では、手をエプロンの下に入れた。

一度だけ、若い女のお客さんに、お母さん、手、痛そう、と言われたことがある。

わたしは、笑って、平気よ、と言った。その晩は、手袋を二枚重ねてはめた。

女の手ではない、と思っていた。

鏡台の前でも、手だけは、見ないようにしていた。

四十五年の水と洗剤が、わたしの手を、少しずつ食っていったのだと思っていた。

削られて、割られて、女らしいところは、もう何も残っていない。

残っているのは、深い割れ目ばかりだ。

同じ年ごろの友だちの手を見るたびに、自分の手を、そっとポケットに入れた。

店を閉めてからも、わたしは、毎晩、手袋をはめて寝た。

治るとは思っていなかった。

ただ、これ以上、割れ目が深くならないようにしたかった。

第三章 夏休みの宿題

この夏、翔が、泊まりに来た。

夏休みの宿題を、一つだけ、持ってきていた。

家族の手、という題だった。

家族の手に墨を塗って、紙に押す。手形を集めて、一枚の紙に並べる。

学校の図工の先生が考えた宿題なのだそうだ。

手は一人ずつ違うから、手形を並べると、家族の顔になるんだって、と翔は言った。

翔は、まず自分の手に墨を塗って、紙に押した。

それから、遊びに来ていた美紀の手。夫の手。

夫の手は、四十五年、包丁を握ってきた手だった。

親指のつけ根が、かたく盛り上がっていた。

最後に、わたしの番になった。

わたしは、いいわよ、おばあちゃんのは、と言った。

おばあちゃんの手は、きれいじゃないから。

翔は、聞かなかった。

おばあちゃんがいないと、家族にならないよ、と言った。

わたしは、しかたなく、手を出した。

翔が、筆で、わたしの手のひらに墨を塗った。

くすぐったくて、少し笑った。

筆の先が割れ目に入るたびに、墨が、すうっと吸いこまれていくのが分かった。

翔は、おばあちゃんの手、墨をいっぱい飲むね、と言った。

紙に押して、そっと手を離した。

手を離すとき、紙が少しだけ、手のひらに吸いついてきた。

第四章 いちばん写った手

翔が、声をあげた。

四つの手形が、並んでいた。

翔の手は、小さくて、ぼんやりしていた。墨が、ただ丸く広がっていた。

美紀の手も、夫の手も、形は分かるが、中は平らだった。

わたしの手だけが、違った。

手のひら一面に、線が、黒く、くっきりと出ていた。

指の節の割れ目も、指先の割れ目も、一本残らず、写っていた。

手相の線も、しわも、割れ目も、みんな同じ黒さで、手のひらいっぱいに広がっていた。

深い割れ目のところに、墨がいちばんたまっていたのだ。

すごい、と翔は言った。おばあちゃんの手が、いちばんよく写ってる。

美紀が、わたしの手形を、しばらく黙って見ていた。

目が、少し赤くなっていた。

それから、言った。

お母さんの手、わたし、小さいころ、好きだった。

ざらざらしてて、頭をなでられると、どこをなでてもらってるか、ちゃんと分かったの。

熱を出した夜、おでこに当ててくれたでしょう。冷たくて、かたくて、あれがいちばん効いた。

わたしは、何も言えなかった。

美紀は、わたしの手を取って、自分のおでこに当てた。

やっぱり、この手だ、と笑った。

手袋のことを、美紀に言ったことは、一度もなかった。

夫が、老眼鏡をかけて、手形をのぞきこんだ。

四十五年分だな、と言った。

おれの手より、ずっと働いた手だ、と言った。

わたしは、笑おうとして、うまく笑えなかった。

第五章 深く割れたところ

その晩、わたしは、手袋をはめずに、布団の上に座っていた。

自分の手を、明かりの下で、長いあいだ見た。

割れ目の奥に、まだ少し、墨が残っていた。

石けんで洗っても、なかなか落ちなかった。

四十五年、わたしは、この手を、水と洗剤に食われた手だと思ってきた。

削られて、割られて、何も残っていない手だと思ってきた。

でも、紙に写った手は、そうではなかった。

深く割れたところほど、墨をたくさん抱いていた。

平らな手は、ぼんやりとしか写らなかった。

翔の手も、美紀の手も、まだ、これからの手だった。

いちばん深く割れた手が、いちばんくっきりと、手の形を残していた。

皿を洗った四十五年は、わたしの手から、何かを削っていったのではなかった。

墨をためるための溝を、一本ずつ、刻んでいたのだ。

美紀の頭の形も、熱の夜のおでこも、その溝の中に入っていた。

平らな手のままだったら、何も抱えていられなかった。

エピローグ

九月、翔の学校で、夏休みの作品が廊下に貼り出された。

わたしは、手袋をせずに、見に行った。

その朝は、クリームも塗らずに家を出た。

家族の手、と書いた紙の下に、四つの手形が並んでいた。

いちばん右が、わたしの手だった。

先生が、題の横に、いちばん働いてきた手、と書き添えてくれていた。

知らないお母さんが、隣に立って、これ、どなたの手かしら、と言った。

線がいっぱいで、すてきね。

うちの子の手なんて、墨の丸にしか見えないのよ、とその人は笑った。

わたしの手です、とわたしは言った。

そして、手のひらを、その人に見せた。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所