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木の下の椅子

光をさえぎったところが、形になっていた

木の下の椅子

朗読で聴く

第一章 大きな楓

七十二になった。

アメリカの北の、湖に近い小さな町に住んでいる。

四十年、町の郵便局に勤めた。妻のエレンは、五年前に死んだ。

娘が一人いて、西の州で、看護師をしている。

家の前庭に、大きな楓の木がある。

父が、わたしの生まれた年に植えた木だ。

子どものころ、父は、毎年、夏の初めに、わたしをこの木の横に立たせて、背を比べた。

わたしが木を追い越したことは、一度もなかった。

いまでは、二階の屋根より高くなって、夏になると、前庭の半分を影にする。

その影は、午後になると、低い垣根を越えて、隣のハリスさんの庭に落ちる。

ハリスさんは、八十になる。奥さんのドロシーは、三年前に死んだ。

ハリスさんは、もとは、工場の技師だった。背が高くて、声の低い人だ。

ハリスさんは、毎年、夏になると、うちの玄関に来て、文句を言った。

あんたの木のせいで、トマトが赤くならない。

秋になると、また来て、言った。

あんたの木の葉が、うちの雨どいに詰まる。

わたしは、そのたびに、すみません、と言った。

秋には、ハリスさんの庭の落ち葉も、自分で熊手でかき集めた。

三十年、毎年、そうしてきた。

ハリスさんは、礼を言わなかった。わたしも、礼を言われたいとは思わなかった。

それが、隣どうしの、決まりのようになっていた。

第二章 影を落とす男

エレンは、わたしのことを、この木みたいな人ね、と言った。

大きくて、黙っていて、そこに立っているだけ。

笑って言っていたが、わたしは、少しこたえた。

わたしは、口の重い男だった。

局でも、家でも、あまり話さなかった。

娘が小さいころ、友だちの家のお父さんは面白いのに、と言われたことがある。

郵便局の窓口でも、若い局員のほうが、客に好かれた。

わたしは、切手を渡して、ありがとうございました、と言うだけだった。

わたしは、自分が、そばにいる人に影を落とす男だと思ってきた。

ハリスさんのトマトに影を落とす木と、同じだ。

エレンが死んだあと、あの木を切ろうかと、何度も考えた。

切れば、ハリスさんのトマトは赤くなる。

雨どいも、詰まらなくなる。

でも、父の植えた木だった。

どうしても、業者に電話をかけられなかった。

電話帳を開いて、番号を探して、そのまま閉じたことが、三度あった。

そのかわりに、わたしは、秋になると、前よりも念入りに、隣の落ち葉をかいた。

第三章 嵐の晩

この夏、ひどい嵐が来た。

夜中に、雷のような音がして、窓の外で、何かが裂けた。

朝、出てみると、楓のいちばん太い枝が、根もとから割れて、垣根の上に落ちかかっていた。

ハリスさんの庭のほうへ、今にも倒れそうだった。

昼すぎに、木の医者が来た。

枝を見上げて、首を振った。

この枝は、落としたほうがいい。幹も、中が傷んでいるかもしれない。

いっそ、木ごと切ったほうが安全ですよ。

わたしは、幹に手を当てた。

父が植えて、わたしが七十二年、見上げてきた木だった。

木の皮は、子どものころと同じに、ざらざらしていた。

わたしは、うなずいた。

とうとう、そのときが来たのだと思った。

ハリスさんに、もう文句を言わせずにすむ。

そう思うと、少しほっとして、少しさびしかった。

三十年、わたしとハリスさんのあいだにあったのは、あの木の文句だけだった。

わたしは、垣根ごしに、ハリスさんの家の戸をたたいた。

木を、切ることにしました。長いあいだ、ご迷惑をかけました。

第四章 影の中の椅子

ハリスさんは、しばらく、わたしの顔を見ていた。

それから、庭に出てきて、割れた枝の下に立った。

切るな、と言った。

いつもの、文句を言うときと同じ声だった。

わたしは、聞きまちがえたのかと思った。

ハリスさんは、庭の芝生を指さした。

芝の上に、うっすらと、四本脚の跡が、いくつも並んでいた。

ドロシーの椅子の跡だ、とハリスさんは言った。

ドロシーは、日の光に当たると、肌が焼けて、熱が出る病気だった。

二十年、夏のあいだ、外に出られるのは、あんたの木の影の中だけだった。

昼すぎは、ここ。三時ごろは、あそこ。夕方は、垣根の近く。

影が動くのに合わせて、一日に何度も、椅子を動かしてな。

影の中で、編み物をして、鳥を見て、わたしと話した。

わたしは、何も言えなかった。

知らなかった。三十年、隣に住んでいて、一度も聞いたことがなかった。

ドロシーは、垣根ごしに、いつも、手を振ってくれた。

わたしは、手を振り返すだけで、話しかけたことはなかった。

いつも木の下にいる人だとは、思っていた。木が好きなのだと、思っていた。

トマトの文句はな、とハリスさんは言った。

あれは、本当だ。あんたの木のせいで、赤くならなかった。

でも、切ってくれと言ったことは、一度もないだろう。

ドロシーが外にいられたのは、あんたの木が日をさえぎってくれたところだけだった。

あの影の形が、あいつの夏だったんだ。

あいつが死んでからも、芝の跡は、なかなか消えなかった。

わたしは、毎朝、それを見に、庭に出たよ、とハリスさんは言った。

第五章 さえぎったところ

その晩、わたしは、暗い前庭に出て、楓を見上げた。

わたしは、ずっと、この木が、隣に影を落としていると思ってきた。

自分も、同じように、そばの人に影を落としてきたと思ってきた。

でも、影を落としたところは、何も無いところではなかった。

日をさえぎったところにだけ、ドロシーの椅子が置けた。

ドロシーの二十年の夏が、影の形のまま、そこにあった。

わたしは、ハリスさんの庭の、芝の上を思い浮かべた。

影の動くとおりに並んだ、椅子の跡。

日の当たらなかったところだけが、あの人の暮らした場所だった。

わたしは、ふと、エレンのことを考えた。

この木みたいな人ね、と言ったとき、エレンは、どんな顔をしていたか。

笑っていた。

夏の午後、エレンは、いつも、この木の下で、本を読んでいた。

わたしが仕事から帰ると、顔を上げて、ここは涼しいのよ、と言った。

あれは、わたしのことを言っていたのかもしれない。

エピローグ

木は、切らなかった。

木の医者に頼んで、割れた枝を落とし、残りの枝を、鉄の線で幹につないでもらった。

影は、前より少し小さくなった。

木の医者は、あと二十年は大丈夫でしょう、と言った。

わたしは、ハリスさんの顔を見た。ハリスさんは、そっぽを向いていた。

九月の午後、わたしは、物置から、エレンの古い椅子を出した。

垣根の近く、夕方の影が落ちるところに置いた。

ハリスさんを呼ぶと、少し迷ってから、垣根の戸を開けて、入ってきた。

二人で、影の中に座った。

垣根の向こうに、芝の上の椅子の跡が、まだ、うっすらと見えた。

ハリスさんは、トマトは、今年も赤くならなかった、と言った。

わたしは、すみません、と言った。

それから、二人で、少し笑った。

影は、ゆっくり、垣根のほうへ動いていった。

わたしたちは、椅子を持って、一緒に動いた。

ソウルミッション358

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