日光写真
光をさえぎったところが、形になっていた

朗読で聴く
第一章 大工の家
六十八になった。
夫は、二年前の春に、七十二で死んだ。
大工だった。中学を出てから、五十年、木を削ってきた人だった。
息子が一人いる。健一は四十二で、隣の県で、市役所に勤めている。
六つになる男の子がいて、陽太という。
夫は、腕のいい大工だった。
声の大きい人でもあった。
機嫌の悪い日には、玄関の戸を閉める音で、それが分かった。
怒ると、家じゅうが、びりびりと鳴った。
手を上げる人ではなかった。けれど、健一を叱るときの声は、隣の家まで聞こえた。
宿題をしていない。返事が小さい。靴をそろえていない。
理由は、何でもよかった。
夫が健一の名前を大きな声で呼ぶと、わたしは、手を拭いて、台所から出た。
そして、夫と健一のあいだに、立った。
健一に背中を向けて、夫の顔を見て、言った。
あなた、もういいでしょう。わたしから、よく言っておきますから。
夫は、しばらく、わたしをにらんで、それから、作業場に戻っていった。
健一が小学生のころから、高校を出るまで、それが続いた。
何百回、あのあいだに立ったか、分からない。
夫の声がすると、健一は、わたしの背中の後ろで、じっとしていた。
わたしのシャツの裾を、小さな手で、つかんでいることもあった。
わたしは、振り向かなかった。振り向いたら、夫に、健一の顔が見えてしまうからだ。
第二章 背中の向こう
健一は、父親と、ほとんど話さない子になった。
食卓でも、目を合わせなかった。
夫が話しかけると、うん、とだけ言って、部屋に上がった。
大学に入って家を出ると、盆と正月にしか、帰らなくなった。
帰ってきても、夫とは、天気の話しかしなかった。
夫は、作業場で、黙って鉋をかけていた。
一度だけ、夫が、健一の部屋の前まで行って、戸をたたかずに戻ってきたことがある。
わたしは、それを、台所から見ていた。何も聞かなかった。
わたしは、それを、自分のせいだと思ってきた。
わたしが、いつも、あいだに立ったからだ。
夫の怒りを、健一に届かせないようにした。
けれど、そのせいで、夫のほかのところも、健一に届かなかったのではないか。
夫は、怒るだけの人ではなかった。
木の話をするときは、子どものような顔をした。
削りたての木の匂いを、健一の鼻に近づけて、いい匂いだろう、と笑ったこともあった。
わたしが背中でさえぎったのは、怒鳴り声だけではなかったのかもしれない。
父親の日なたまで、わたしが、ふさいでしまったのかもしれない。
夫の葬式で、健一は、泣かなかった。
喪主の挨拶を、紙を見ながら、静かに読んだ。
それを見て、わたしは、この子から父親を取り上げたのは、わたしだと思った。
二年、ずっと、そう思ってきた。
第三章 駄菓子屋の紙
健一が小学二年の夏、駄菓子屋で、日光写真を買ってやったことがある。
薄い緑色の紙に、絵が黒く描いてある透明なフィルムを重ねて、日なたに置いておく。
しばらくして紙を水で洗うと、絵のところだけが、白く浮かんでくる。
光の当たったところは、濃い青になる。
フィルムの黒い線が光をさえぎったところだけが、白いまま残る。
健一は、それが、ひどく気に入った。
夏休みのあいだ、縁側に、何枚も並べていた。
日が雲に隠れると、じっと空を見上げて、待っていた。
できあがった紙を、夫に見せに行ったこともある。
夫は、ちらりと見て、ふん、と言っただけだった。
健一は、それきり、夫には見せなくなった。
フィルムを使い切ると、今度は、自分で物を置くようになった。
葉っぱ。鍵。夫の曲尺。
夫の道具を勝手に持ち出して、また叱られた。
そのときも、わたしは、あいだに立った。
あの夏の紙は、どこかへいってしまったと思っていた。
この春、健一が、陽太を連れて、三回忌に帰ってきた。
陽太は、途中の駄菓子屋で、日光写真を買ってもらっていた。
まだ売っていたのかと、わたしは驚いた。
健一は、懐かしいなあ、と言って、袋を裏返して値段を見ていた。
陽太は、フィルムを一枚ずつ、日にすかして、選んでいた。
第四章 白く残ったところ
法事のあと、健一は、庭で、陽太と日光写真をしていた。
陽太は、夫の作業場から、小さな鉋を持ってきて、紙の上に置いた。
わたしは、叱られる、と思った。
それから、叱る人は、もういないのだと思った。
しばらくして、健一が、紙を洗った。
青くなった紙に、鉋の形が、白く出ていた。
光が当たらなかったところが、白く残るんだよ、と健一は陽太に教えていた。
それから、縁側のわたしのほうを見て、言った。
母さん。おれ、父さんのこと、母さんの背中ごしにしか、見てないんだ。
わたしは、うなずいた。ごめんね、と言いかけた。
でもさ、と健一は続けた。
だから、父さんを、嫌いにならずにすんだんだと思う。
怒鳴り声は、聞こえてた。でも、怒ってるときの顔は、一度も見てない。
見てたら、たぶん、ずっと許せなかった。
母さんが立ってたところだけ、おれの中で、焼けずに残ってるんだ。
鉋をかけてる父さん。木の匂いをかがせてくれた父さん。
そっちの父さんだけが、白いまま、形になって残ってる。
葬式のとき、泣かなかったでしょう、と健一は言った。
あのとき、どっちの父さんを思い出していいか、分からなかったんだ。
今日、この鉋を見て、やっと分かった。
健一は、少しだけ、目を赤くしていた。
陽太が、パパ、どうしたの、と聞いた。
健一は、まぶしいんだよ、と言って、笑った。
第五章 さえぎったところ
その夜、わたしは、眠れなかった。
四十年近く、わたしは、自分を、夫と息子のあいだの影だと思ってきた。
二人のあいだの日なたを、背中でふさいだ女だと思ってきた。
でも、日光写真の紙は、そうはならなかった。
光をさえぎったところは、暗くならなかった。
そこだけが、焼けずに、白く、形になって残っていた。
わたしが背中でさえぎったのは、夫の怒った顔だった。
その向こうで、健一の中に、夫のいちばんいいところが、焼けずに残っていた。
わたしは、何も取り上げていなかった。
押し入れの奥の箱を開けると、あの夏の日光写真が、一枚だけ出てきた。
色のあせた青い紙に、曲尺の形が、白く残っていた。
夫の道具だった。
紙の裏に、鉛筆で、何か書いてあった。
健一、八つの夏。
夫の字だった。
ふん、と言った夫が、あの夏、健一の紙を、黙って一枚、取っておいたのだ。
健一にも、わたしにも、何も言わずに。
エピローグ
次の朝、陽太が、もう一枚やりたい、と言った。
フィルムは、もう、残っていなかった。
陽太は、最後の一枚の紙を縁側に置いて、わたしの手を引いた。
おばあちゃん、ここに立って。おばあちゃんの形も、残るかな。
お日さまは、動くからね、と健一が笑った。
わたしは、紙の前に立った。
わたしの影が、紙の上に、ちょうど落ちた。
陽太が、動かないでね、と言った。
わたしは、しばらく、動かずに立っていた。
背中に、朝の日が、あたたかかった。
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