謄写版
溜めすぎたところが、にじんでいた

朗読で聴く
第一章 刷る人
七十になった。
中学校で社会科を教えて、三十八年勤め、十二年前に退職した。
妻は六十八で、娘が一人いる。千春は四十で、隣の市でピアノ教室を開いている。
わたしが教師になったころ、学校のプリントは、どれも謄写版で刷っていた。
ろう引きの原紙に、鉄筆で字を刻む。
原紙を枠に張り、インクを付けたローラーを、上から転がす。
すると、刻んだところからだけインクが落ちて、下の紙に字が写る。
わたしは、それが得意だった。
字は、大きすぎず、小さすぎず、原紙のます目にきちんと収める。
鉄筆の先で、ろうを削りすぎると、原紙がやぶれる。
浅すぎると、インクが通らない。
削る力も、ローラーの力も、同じだった。
職員室の奥の印刷室で、毎朝、学年だよりや試験問題を刷った。
若い先生たちが、きれいに刷れないと言って、よくわたしを呼びに来た。
コツは、ローラーの力だった。
若いころ、先輩の先生に教わったコツだった。
インクを付けすぎず、力を入れすぎず、同じ速さで、すっと転がす。
力を入れすぎると、インクが溜まって、字がにじむ。
弱すぎると、かすれて読めない。
ちょうどいい力かげんが、いちばんきれいに刷れる。
わたしが刷った学年だよりは、最後の一枚まで、字がつぶれていない、とよく言われた。
わたしは、それを、少し自慢にしていた。
わたしは、若い先生たちに、何度もそう言った。
第二章 ピアノ
千春は、四つのときから、ピアノを習った。
才能がある、と先生に言われて、わたしは、すっかりその気になった。
音楽大学に行かせたい、と思った。
わたし自身、子どものころ、ピアノを習いたかったが、家に余裕が無かった。
自分に無かったものを、娘には全部渡したいと思った。
毎晩、練習を横で聞いた。
間違えると、もう一度、と言った。
同じところを、十回でも、二十回でも弾かせた。
コンクールの前は、夜の十時まで弾かせた。
妻が止めても、わたしは、やめなかった。
やめたら、せっかくの才能が消えてしまうと思った。
いまから思えば、消えるのが怖かったのは、わたしのほうだった。
いまが大事なときなんだ、と言った。
千春は、泣きながら弾いた。
涙が鍵盤に落ちても、わたしは、ハンカチを渡して、続けなさい、と言った。
妻は、台所で、黙って皿を洗っていた。
皿の音が、いつもより大きかった。
中学二年の秋、千春は、コンクールの予選で、途中で手が止まった。
舞台の上で、動かなくなった。
その晩、千春は、もうピアノはやめる、と言った。
わたしは、何も言えなかった。
それから三年、千春は、ピアノのふたを開けなかった。
わたしは、自分が、娘の音楽を壊したのだと思っていた。
居間のアップライトは、それから、ほとんど誰も弾かなくなった。
ふたには、妻が、花瓶や写真を置くようになった。
わたしは、その前を通るたびに、目をそらした。
第三章 教室
千春は、高校を出て、保育の短大に行った。
ピアノとは関係のない道を選んだのだと、わたしは思った。
保育園で十年働いたあと、三十の年に、ピアノ教室を開いた。
開くと聞いたとき、わたしは、驚いた。
あれほど嫌がったピアノを、どうしてまた、と思った。
聞くことは、できなかった。
聞けば、あの秋のことを、話さなければならない気がした。
千春も、あの秋のことを、一度も口にしなかった。
二人とも、そのことだけは、避けてきた。
千春の教室は、小さな子どもたちばかりで、評判がいいらしい。
妻が、ときどき、様子を話してくれた。
あの子の教室は、叱らないのよ、と妻は言った。
わたしは、それを聞くたびに、胸が痛んだ。
わたしが叱りすぎたから、あの子は叱らないのだと思った。
わたしのやり方を、娘は、いちばん嫌なものとして覚えているのだと。
この春、妻が入院して、わたしは、初めて一人で千春の教室に行った。
妻の着替えを預かってもらう用事だった。
教室は、商店街の外れの、古い二階建ての家の一階にあった。
入り口には、小さな靴がいくつも並んでいた。
ガラス戸の向こうから、ゆっくりした音が聞こえていた。
第四章 ローラーの話
教室では、レッスンの最中だった。
六つくらいの女の子が、同じところで何度もつまずいていた。
千春は、その横で、急かさずに待っていた。
それから、女の子の肩に、そっと手を置いて言った。
力を入れすぎると、音がにじんじゃうよ。
ちょうどいい力かげんで、すっと弾いてごらん。
女の子は、もう一度弾いて、今度は、きれいに弾けた。
女の子は、うれしそうに、千春の顔を見上げた。
レッスンが終わってから、わたしは、千春に聞いた。
さっきの、にじむ、っていうのは。
千春は、少し笑った。
お父さんの言葉よ。覚えてないの。
小学生のころ、日曜に、学校の印刷室について行ったでしょう。
お父さん、ローラーを転がしながら、言ってたの。
力を入れすぎると、インクが溜まって、字がにじむ。ちょうどいい力かげんが、いちばんきれいに刷れる。
わたし、あれがずっと好きだった。
だから、ピアノの先生になって、最初に子どもに言ったのが、それなの。
千春は、壁の棚から、一枚の古い紙を出してきた。
わたしが刷った、学年だよりだった。
千春が小学生のころ、印刷室で、手伝ってくれた日のものだった。
字は、最後の字まで、つぶれていなかった。
第五章 にじんだ夜
わたしは、しばらく、何も言えなかった。
ピアノの横で、わたしは、力を入れすぎていた。
毎晩、同じところを何十回も弾かせて、インクを溜めすぎていた。
だから、あの秋、千春の音は、にじんでしまった。
わたしがいちばん力を込めたところが、いちばん、にじんでいた。
けれど、日曜の印刷室で、ローラーを転がしながら、何気なく言ったことは、ちゃんと届いていた。
力を入れずに言ったことだった。
娘に教えるつもりもなかった。
日曜の印刷室は、わたしにとって、ただの仕事の続きだった。
千春は、その横で、インクの匂いをかぎながら、刷り上がった紙を数えていた。
それが、三十年たって、千春の教室で、子どもたちに渡っていた。
帰り際、千春が言った。
お父さん、あのときのピアノのこと、もう怒ってないよ。
あれは、お父さんが、ローラーの話を忘れてただけだと思う。
わたしは、そうだな、と言った。
それ以上、言葉が出てこなかった。
忘れていた。自分がいちばん大事にしてきたコツを、いちばん大事な娘の前で、忘れていた。
エピローグ
妻は、ひと月で退院した。
退院の日、千春が、車で迎えに来てくれた。
家に着くと、千春は、居間の古いアップライトのふたを開けた。
千春が家を出てから、誰も弾いていなかったピアノだった。
千春は、椅子に座って、ゆっくりと一曲、弾いた。
子どものころに、何十回も弾かされた曲だった。
音は、にじんでいなかった。
ちょうどいい力かげんで、すっと流れていた。
妻が、台所で、黙って聞いていた。
皿の音は、しなかった。
わたしも、黙って聞いていた。
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