← あなたの魂のテーマを探す に戻る

低い音

くすんだ色も、白ではなかった

低い音

朗読で聴く

第一章 町の楽団

七十になった。

製材所で四十五年働いて、五年前に辞めた。

妻は六十七で、元気にしている。息子は四十で、県庁のある市にいる。

わたしは、二十五のときから四十五年、町の吹奏楽団でチューバを吹いてきた。

チューバは、楽団でいちばん大きくて、いちばん低い音の楽器だ。

膝の上に抱えると、金色の管が、顔の前までせり上がってくる。

町の楽団は、三十人ほどの寄り合いだ。

春の花見、夏祭り、秋の文化祭、それから年に一度の定期演奏会。

練習は、毎週木曜の夜、公民館の二階でやる。

冬は、石油ストーブを二台つけても、指がかじかむ。

チューバの金属は、冷えると、唇にはりつくように冷たい。

楽団の花形は、トランペットの茂だった。

茂は、わたしと同い年で、小学校からの付き合いだ。

定期演奏会のいちばん最後の曲で、茂は毎年、一人で立ち上がって長いソロを吹いた。

高く、よく通る音で、客席の誰もが、茂のほうを見た。

演奏会が終わると、茂のまわりには、いつも人が集まった。

わたしのところには、誰も来なかった。

妻だけが、ロビーの隅で待っていた。

来なくて当たり前だと思っていた。

わたしは、片づけのあと、重いケースを一人で車に積んで、先に帰った。

帰りの車の中で、茂のソロが、まだ耳に残っていた。

第二章 聞こえない音

チューバの音は、客席では、ほとんど聞こえない。

聞こえないというより、音として、聞き分けられない。

低すぎて、ほかの楽器の下に、沈んでしまう。

演奏会の録音を、家で何度か聞いたことがある。

どこで自分が吹いているのか、自分でも分からなかった。

妻に、聞こえるか、と聞くと、妻は、耳を澄まして、しばらく黙っていた。

聞こえない、と正直に言った。

でも、何かがずっと鳴ってるのは分かる、と付け加えた。

わたしは、それを、気をつかって言ったのだと思った。

チューバの楽譜は、退屈だ。

同じ音を、何小節も、同じ長さで吹きつづける。

メロディーは、ほとんど回ってこない。

楽譜の上では、わたしの段だけ、黒い玉が同じ高さに並んでいる。

若い団員に見せると、これ、つまらなくないですか、と聞かれたことがある。

つまらない、とわたしは答えた。本当にそう思っていた。

トランペットがソロを吹いているあいだも、わたしは、その下のほうで、低い音を一つずつ置いているだけだ。

四十五年、わたしは、楽団の中の、いてもいなくてもいい場所にいると思ってきた。

音楽の中の、何も書いていない余白のようなものだと。

一度だけ、トランペットに替わろうかと思ったことがある。

三十のときだ。茂に言うと、茂は、笑って、やめとけ、と言った。

お前がいなくなったら困る、と茂は言った。

わたしは、それも、気をつかって言ったのだと思った。

第三章 一度だけ休んだ日

四十五年で、演奏会を休んだのは、一度だけだ。

五十八の秋、定期演奏会の前の晩に、熱を出した。

三十九度あって、朝になっても下がらなかった。

妻に止められて、その日は家で寝ていた。

布団の中で、演奏会の始まる時間になると、時計ばかり見ていた。

いまごろ、最初の曲だ。いまごろ、茂が立ち上がるころだ。

チューバは、ほかに吹ける者がいなかった。楽団は、チューバ無しで演奏した。

あとで、録音を聞いた。

どこが違うのか、わたしには、よく分からなかった。

ただ、いつもより、少し軽い感じがした。

茂のソロは、いつもどおり、高く、よく響いていた。

わたしは、やはり、いてもいなくても同じだったのだと思った。

次の練習の日、茂が、大丈夫か、と一言だけ聞いた。

大丈夫だ、と答えると、茂は、それ以上は何も言わなかった。

その年の打ち上げに、わたしは顔を出さなかった。

熱が下がりきっていないから、と言って、家にいた。

本当は、行っても、居場所が無いような気がしたのだった。

それから十二年、わたしは、一度も休まなかった。

休まなかったのは、意地のようなものだったかもしれない。

第四章 送る会

この春、茂が、楽団をやめることになった。

肺を悪くして、長い音が続かなくなったのだという。

最後の定期演奏会のあと、公民館で、小さな送る会をやった。

茂が、あいさつに立って、四十五年の礼を言った。

それから、わたしのほうを見て言った。

五十八の年、こいつが熱で休んだことがあった。

あの日、ソロの途中で、足の下が無くなったみたいになった。

いつもは、立ち上がると、下からずっと、低い音が支えてる。

聞こうと思って聞いたことは無い。でも、無くなると、すぐ分かった。

音が、宙に浮いた。どこに立って吹いてるのか、分からなくなった。

あの年のソロが、いちばん下手だった。録音を聞くと、俺には分かる。

茂は、そこで少し笑った。

四十五年、一小節も休まずに鳴ってたから、俺は、安心して上に乗れたんだ。

楽団の何人かが、うなずいていた。

わたしは、立ったまま、何も言えなかった。

送る会が終わってから、茂が、わたしのところに来た。

言うのが遅くなった、と茂は言った。

四十五年、礼を言うのは、いつも客のほうにだった。

いちばん礼を言わなきゃならない相手に、一度も言ってなかった。

茂の手は、昔より、ずっと細くなっていた。

第五章 余白ではなかった

わたしは、自分の音を、余白だと思ってきた。

音楽の中の、何も鳴っていないところと、同じだと。

けれど、余白ではなかった。

聞き分けられないほど低くて、くすんだ音だったが、ちゃんと鳴っていた。

鳴っていたから、茂は、その上に立てた。

一度だけ無くなった日に、茂の足の下が、空いた。

妻が言った、何かがずっと鳴ってるのは分かる、というのも、本当だったのだと思う。

気をつかったのではなかった。

目立つ音は、目立たない音の上でしか、目立てない。

何も無いところでは、どんな高い音も、ただ浮いているだけだ。

わたしの四十五年は、茂のソロの下の、くすんだ下地の色だった。

白いところでは、なかった。

家に帰って、そう妻に言うと、妻は、いまごろ気づいたの、と笑った。

その晩、チューバをケースから出して、居間で一つだけ、低い音を吹いてみた。

窓ガラスが、かすかに震えた。

聞こえないと思っていた音は、ガラスを震わせるくらいには、ちゃんと鳴っていた。

エピローグ

今年の秋の定期演奏会で、新しいトランペットがソロを吹いた。

中学三年の女の子で、茂の孫だ。

練習のあいだ、女の子は、いつも楽譜から顔を上げなかった。

音は、まだ細い。途中で、少し震えた。

わたしは、その下のほうで、いつもどおり、低い音を一つずつ置いた。

一小節も休まずに、置いた。

演奏会のあと、女の子が、チューバのそばまで来て言った。

おじいちゃんが、下の音を聞いてろって言ってたの。

聞こえなかったけど、ずっといるのは分かった、と女の子は言った。

わたしは、それでいいんだ、と言った。

女の子は、うなずいて、トランペットのケースを抱えて帰っていった。

茂は、客席のいちばん後ろで、手を叩いていた。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所