髪を結ぶ
むらがあっても、届いていた

朗読で聴く
第一章 二人の子
六十四になった。
夫は六十七で、去年、勤めていた印刷所を辞めた。
子どもが二人いる。
上の健太は四十で、いまは元気に隣の県で働いている。
下の美咲は三十六で、同じ町に住み、七つの娘がいる。
健太は、生まれつき心臓が弱かった。
三歳で一度、八歳で一度、大きな手術を受けた。
小学校のあいだは、熱を出すたびに入院した。
病院の小児科の廊下は、夜になると電気が半分消える。
わたしは、その薄暗い廊下の長椅子で、何度も朝を迎えた。
わたしは、そのたびに病院に泊まり込んだ。
美咲は、健太の二つ年下だった。
健太が入院するたびに、美咲は、夫と二人で家に残された。
夫は印刷所の仕事が遅く、美咲は、保育園の延長で最後の一人になることが多かった。
わたしは、病院の廊下の公衆電話から、毎晩、家に電話をかけた。
美咲は、電話の向こうで、いつも、だいじょうぶ、と言った。
四歳の子の、だいじょうぶ、だった。
受話器の向こうで、夫が、美咲、ちゃんと食べてるよ、と言う。
わたしは、ありがとう、と言って、電話を切った。
切ったあと、しばらく公衆電話の前から動けなかった。
病室に戻ると、健太が、点滴のくだをつけたまま眠っていた。
わたしは、その寝顔を見ながら、家の台所にいる美咲のことを考えていた。
第二章 同じにできなかった
わたしは、二人の子に、同じようにしてやれなかった。
健太には、手も目も時間も、ありったけかけた。
美咲には、残ったものしか渡せなかった。
運動会も、発表会も、健太の検査と重なって、何度も行けなかった。
美咲の小学校の入学式の日も、健太は熱を出して、わたしは式の途中で抜けた。
美咲は、そのことを、一度も責めなかった。
入学式の写真は、夫が一人で撮った。
写真の中の美咲は、ランドセルを背負って、門の前で、まっすぐ前を見ている。
その隣には、誰も写っていない。
責めない子だったから、わたしは、余計に後ろめたかった。
健太の分は濃く、美咲の分は薄い。
わたしの子育ては、むらだらけだった。
健太の写真は、病院のベッドの上のものまで、アルバムに何冊もある。
美咲の写真は、ずっと少ない。
撮る手も、撮る時間も、健太のほうに取られていた。
アルバムを開くたびに、そのむらが、目に見える形で並んでいた。
健太が中学に上がって体が丈夫になってからは、今度は美咲に取り返そうとした。
けれど、そのころには、美咲はもう、一人で何でもできる子になっていた。
取り返そうとして差し出した手は、たいてい、いいよ、自分でやる、と返された。
わたしは、美咲の小さいころを、取り返せないまま、ここまで来た。
夫にそれを言うと、夫は、美咲はちゃんと育ったじゃないか、と言った。
ちゃんと育ったのは、美咲が自分で育ったからだ、とわたしは思っていた。
わたしが渡したものではなく、渡せなかったもので、あの子は強くなったのだと。
そう思うと、母親として、何をしていたのか分からなくなった。
第三章 孫の髪
この春、美咲が、娘の髪を結んでほしいと言ってきた。
美咲は看護師で、夜勤のある週は、朝、娘の髪を結ぶ時間が無い。
週に二日、朝七時に美咲の家に行って、孫娘の髪を結ぶことになった。
美咲から頼みごとをされるのは、何年ぶりか分からなかった。
わたしは、前の晩、なかなか眠れなかった。
孫娘は、鏡の前の小さな椅子に座って、足をぶらぶらさせる。
わたしは、櫛で髪をとかし、二つに分けて、ゴムで結ぶ。
美咲の家の洗面所には、小さな櫛と、色とりどりのゴムが、かごに入っている。
どのゴムにするかは、毎朝、孫娘が選ぶ。
三日目の朝、孫娘が言った。
おばあちゃんの結び方、ママと同じだね。
わたしは、手を止めた。
ママも、こうやって、ここのところを一回ねじるの。
孫娘は、自分の耳の上のところを指さした。
わたしは、美咲が小さいころ、髪を結ぶとき、いつも耳の上で一回ねじっていた。
そうすると、ゴムがずれないからだ。
けれど、美咲の髪を結んでやれた朝は、そう多くはなかった。
病院から帰った朝、ほんの数えるほどの朝だけだった。
第四章 数えるほどの朝
その日の夕方、美咲が娘を迎えに来たとき、わたしは聞いた。
あんた、髪の結び方、どこで覚えたの。
美咲は、少し笑って言った。
お母さんでしょう。
でも、あんたの髪、ほとんど結んでやれなかったのよ。
美咲は、首をかしげて言った。
知ってる。お兄ちゃんのことで、お母さん、いつもいなかったもんね。
でも、たまに家にいる朝、お母さんが結んでくれたのは、全部覚えてる。
耳の上で一回ねじるの。ほかの誰も、そうやって結んでくれなかったから。
保育園の先生も、お父さんも、ねじらなかった。
だから、お母さんが結んだ日は、自分で触ると分かった。
今日はお母さんの日だって。
お母さんの日は、一日じゅう、頭を触ってた。
ほどけないように、そっと。
わたしは、何も言えなかった。
美咲は、娘の靴をそろえながら、何でもないことのように話していた。
わたしのほうが、何でもないことにできなかった。
数えるほどの朝のことを、美咲は、全部覚えていた。
わたしは、その朝の数を、覚えていなかった。
少なすぎて、数える気にもなれなかったからだ。
第五章 薄いところも
その晩、わたしは、夫に、美咲の話をした。
夫は、黙って聞いていて、それから言った。
印刷所で四十年、刷りのむらを見てきた。
むらの無い刷りなんて、機械でもできない。
薄いところも、刷れていないわけじゃない。薄く、刷れているんだ。
わたしは、健太の分が濃く、美咲の分が薄い、と思ってきた。
薄いところは、何も渡せなかったところだと思ってきた。
けれど、美咲の中には、その薄いところの朝が、ちゃんと刷れていた。
耳の上で一回ねじる、というやり方で。
濃い日は、覚えていないのかもしれない。
毎日そこにあるものは、覚えにくい。
たまにしかない朝だったから、美咲は、それを一つずつ覚えていた。
健太は、たぶん、わたしが毎日そばにいたことを、一つ一つは覚えていない。
それでいいのだと思う。濃いところは、濃いまま、あの子の中にある。
むらのある子育てだった。それは、いまも変わらない。
けれど、むらの薄いところにも、わたしの手は、届いていた。
美咲は、それを、自分の娘の髪に、そのまま結んでいた。
エピローグ
週に二日、朝七時に、美咲の家に行く。
孫娘の髪をとかして、二つに分ける。
耳の上で、一回ねじる。
孫娘は、鏡の中で、自分の頭を触って言う。
今日は、おばあちゃんの日だ。
わたしは、そうよ、と言う。
台所では、夜勤明けの美咲が、コーヒーを飲んでいる。
ねじるところ、もう少し上のほうがいいよ、と美咲が言う。
わたしは、はいはい、と言って、少しだけ上にずらす。
美咲の結び方のほうが、いまは上手だ。
孫娘は、玄関で靴をはきながら、もう一度、耳の上を触った。
そして、行ってきます、と言って、走っていった。
それでいいのだと思う。
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