玄関の明かり
刷らなかったところが、光だった

朗読で聴く
第一章 息子
七十になった。
アメリカの真ん中の、川沿いの小さな町に住んでいる。
町の小学校で三十五年、給食を作ってきて、十年前に辞めた。
夫のフランクは、六年前に七十二で死んだ。
子どもは一人、息子のダニーで、いまは四十四になる。
ダニーは、小さいころ、給食の厨房に遊びに来るのが好きだった。
大きな鍋をのぞいて、今日は何、と聞いた。
ダニーは、二十代の終わりから十五年ほど、酒と薬で苦しんだ。
仕事を失い、結婚も続かず、何度も病院に入った。
そのたびに、夫とわたしは、迎えに行き、家に連れて帰り、仕事を探し、お金を渡した。
ダニーは、しばらくは良くなり、また悪くなった。
良くなるたびに、わたしたちは、今度こそ、と思った。
悪くなるたびに、わたしたちのやり方が足りなかった、と思った。
わたしたちは、そのたびに、もっと何かをしなければ、と思った。
電話をかけ、見に行き、言い聞かせ、泣いた。
できることは、全部した。
全部したのに、ダニーは良くならなかった。
夫が死ぬ少し前、病院のベッドで、わたしに言った。
ダニーには、もう何もしてやらなくていい。
あの子には、自分で戻ってくる場所だけ、残しておけばいい。
わたしは、それが何のことか、よく分からなかった。
何もしないで待つことが、母親にできるとは思えなかった。
何かをしていないと、自分がだめな母親になる気がした。
第二章 何もしない
夫が死んだあと、ダニーは、葬式にも来なかった。
その年の冬、ダニーから、お金を貸してくれと電話があった。
わたしは、初めて、断った。
貸さないよ。でも、帰ってきたかったら、いつでも帰っておいで。
ダニーは、何も言わずに電話を切った。
断ったのは、生まれて初めてだった。
断る声が、自分の声ではないように聞こえた。
受話器を置いたあと、わたしは台所の椅子に座って、しばらく動けなかった。
それから、連絡が途絶えた。
わたしは、何度も電話をかけようとして、やめた。
探しに行こうとして、やめた。
夫の言ったことを、わたしなりに考えた。
何もしてやらない。戻ってくる場所だけ、残しておく。
わたしにできることは、ほとんど無かった。
だから、一つだけ決めた。
夜、玄関の明かりを消さない。
夫が生きていたころは、玄関の明かりは、夜の十時に消していた。
それを、一晩中つけることにした。
家の電話番号も、変えない。
玄関の鍵の置き場所も、変えない。植木鉢の下にある。
それだけだった。
わたしが決めたのは、明かりと、電話番号と、鍵の三つだけだ。
どれも、何かをすることではなく、変えないことだった。
それ以外は、本当に、何もしなかった。
第三章 三年
三年、ダニーからは何の連絡も無かった。
玄関の明かりは、毎晩ついていた。
電気代の明細を見るたびに、わたしは、これは何のためだろう、と思った。
近所の人は、明かり、つけっぱなしね、と言った。
わたしは、うっかりなのよ、と言った。
明かりの電球は、三年で二回切れた。
わたしは、そのたびに、脚立に乗って替えた。
教会の友だちは、息子さんを探したほうがいいんじゃない、と言った。
探偵を頼んだら、と言う人もいた。
わたしは、何もしなかった。
ダニーの部屋も、そのままにしておいた。
片づけもせず、飾りもせず、ただ、そのままにした。
何もしないのは、何かをするより、ずっと、つらかった。
夜中に目が覚めると、玄関の明かりが、カーテンの隙間から見えた。
わたしは、母親として、何もしていない、と思った。
夫が生きていたら、何と言うだろうと思った。
あなたの言ったとおりにしたけど、あの子は帰ってこないわよ。
三年目の冬には、明かりを消そうかと、一度だけ思った。
スイッチに手をかけて、やめた。
消したら、夫との約束も一緒に消える気がした。
第四章 帰ってきた夜
四年目の春の夜、玄関の呼び鈴が鳴った。
夜の十一時過ぎだった。
ドアを開けると、ダニーが立っていた。
痩せていたが、目は、はっきりしていた。
ダニーは、玄関の明かりの下で、しばらく黙っていた。
それから、言った。
一年半、やめてる。施設に入って、自分で出てきた。
わたしは、ダニーを家に入れた。
植木鉢の下の鍵は、使われなかった。
ダニーは、自分で呼び鈴を押したのだ。
台所で、コーヒーを入れた。
ダニーは、テーブルで、コーヒーを両手で持って言った。
母さん、あの明かり、ずっとついてたの。
わたしは、うなずいた。
ダニーは、少し笑って言った。
施設で、一番つらかったとき、目をつぶると、この家の玄関の明かりが見えた。
ついてるかどうか、分からなかった。でも、ついてると思った。
母さんは、たぶん消してないって。
ダニーは、施設を出て、昼に一度、車でこの家の前を通ったのだと話した。
昼間なのに、玄関の明かりがついていた。
それで、夜になってから、呼び鈴を押す気になった。
第五章 刷っていないところ
ダニーは、それから、ぽつりぽつりと話した。
昔は、母さんと父さんが、何かしてくれるたびに、逃げたくなった。
迎えに来られるたびに、仕事を探されるたびに、自分の場所が無くなる気がした。
でも、この三年、母さんは、何もしなかった。
電話もかけてこなかった。探しにも来なかった。
それが、最初は、見捨てられたんだと思った。
でも、途中で、分かった。
母さんが何もしないところに、自分が戻る場所が、空けてあった。
わたしは、コーヒーのカップを持ったまま、何も言えなかった。
コーヒーは、すっかり冷めていた。
わたしは、三年、自分は何もしていないと思っていた。
母親として、何も描けていない、白い三年だと思っていた。
けれど、ダニーにとっては、その白いところが、帰る道だった。
わたしが何かをしていたら、その道は、わたしの手で埋まっていた。
何もしなかったところが、ダニーにとっての明かりだった。
夫は、たぶん、このことを分かっていたのだと思う。
わたしより先に、何もしないことの大変さを知っていたのだと思う。
玄関の電球は、ただの目印だった。
本当の明かりは、わたしが埋めなかった、三年の白のほうだった。
エピローグ
ダニーは、いま、隣の町のガソリンスタンドで働いている。
日曜の夕方に、ときどき来て、夕飯を食べていく。
わたしは、仕事はどうだとも、酒は飲んでいないかとも、聞かない。
聞きたいことは、山ほどある。
聞かない。
夫の言った、戻ってくる場所を、わたしは、まだ残しておきたい。
玄関の明かりは、いまも毎晩つけている。
ダニーは、もう要らないよ、と笑う。
わたしは、うっかりなのよ、と言う。
ダニーは、帰るとき、玄関の明かりの下で、いつも一度振り返る。
わたしは、台所の窓から、その背中を見送る。
フランクの写真の前で、夜、わたしは、ときどき言う。
あなたの言ったとおりだったわね。
何もしないのは、大変だったのよ。
写真の夫は、何も言わない。
何も言わないところが、あの人らしいと思う。
あなたの魂のテーマに気づく場所