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口を出さない

刷らなかったところが、光だった

口を出さない

朗読で聴く

第一章 自転車屋

七十一になった。

駅前の商店街で、自転車屋を四十年やってきた。

父が戦後に始めた店で、二十五のときに手伝い始め、三十一で継いだ。

店の前には、父の代から、空気入れが一台、誰でも使えるように出してある。

町の子どもたちは、みんな、その空気入れでタイヤをふくらませて大きくなった。

妻は六十八で、店の奥の家で、いまも一緒に暮らしている。

十年前、店を息子に譲った。

息子は四十三で、東京で車の会社に勤めていたのを辞めて、帰ってきた。

辞めた理由は聞かなかった。

聞けば、わたしの思う理由を、息子に押しつけることになる気がした。

譲るとき、わたしは一つだけ決めた。

口を出さない。

わたしが父から店を継いだとき、父は毎日、店に出てきて、あれは違う、これは違う、と言った。

ブレーキの調整も、パンクの張り方も、客へのお釣りの渡し方も。

父の言うことは、たいてい正しかった。

正しいから、言い返せなかった。

それでも、わたしは、父が死ぬまでの七年、自分の店だと思えなかった。

だから、息子には、何も言わないと決めた。

鍵を渡した日、わたしは息子に言った。

今日から、おまえの店だ。わたしは、店には出ない。

息子は、少し驚いた顔をして、分かった、と言った。

妻は、その晩、本当に出ないの、と聞いた。

出ない、とわたしは言った。

言いながら、自分でも、どこまで守れるか分からなかった。

第二章 何もしなかった十年

それから十年、わたしは本当に、店に口を出さなかった。

店の奥の家から、店の音は聞こえる。

シャッターの開く音、空気入れの音、客の声。

聞こえても、出ていかなかった。

息子は、店をずいぶん変えた。

電動の自転車を多く置くようになり、修理は予約制にした。

店の半分を片づけて、客が座って待てる長椅子を置いた。

父の代からの古い部品の棚は、全部、倉庫にしまわれた。

わたしは、それを、家の窓から見ていた。

店の前の空気入れだけは、息子も残していた。

朝、シャッターが開くと、息子がそれを外に出す音がした。

言いたいことは、山ほどあった。

電動のは壊れると高くつく。予約制だと、通りがかりの客が逃げる。あの棚の部品は、もう手に入らない。

どれも、言わなかった。

夜、妻に言うことはあった。

妻は、言いたいなら言えば、と言った。

わたしは、言わない、と言った。

言わないでいるのは、思っていたよりずっと、骨の折れることだった。

口のところまで出かかった言葉を飲み込むたびに、わたしは庭に出て、植木に水をやった。

十年で、庭の植木は、ずいぶん大きくなった。

三年目の冬、店の売り上げが落ちて、息子が夜遅くまで帳簿を見ていた。

わたしは、家の窓から、店の明かりを見ていた。

助けてやりたかった。

けれど、助ければ、また父とわたしと同じになる。

わたしは、何もしなかった。

第三章 何もしてやれなかった

息子の店は、四年目から、少しずつ持ち直した。

長椅子で待つ客が増え、近所の年寄りが、修理がなくても座りに来るようになった。

電動の自転車は、坂の多いこの町でよく売れた。

わたしの考えは、ほとんど外れていた。

それはそれで、よかったと思う。

近所の人は、わたしに、隠居して楽でしょう、と言った。

楽ではなかったが、そうですね、と答えた。

けれど、わたしの中には、ずっと引っかかっているものがあった。

わたしは、息子に、何も教えなかった。

四十年分の、自転車のことを、何一つ渡さなかった。

父は、うるさかったが、全部を教えてくれた。

わたしは、うるさくない代わりに、何も渡さなかった。

倉庫にしまわれた父の部品の箱を、一度だけ、夜中に見に行ったことがある。

ほこりをかぶった箱の一つ一つに、父の字で、部品の名前が書いてあった。

わたしは、それを息子に説明しようとして、やめた。

口を出さないと決めたのは、息子のためだと思っていた。

けれど、本当は、自分が父のようになるのが嫌だっただけかもしれない。

何もしないことで、自分を守っていただけかもしれない。

店を譲って九年目の冬、わたしは、そう思うようになっていた。

わたしは、息子に、何もしてやれなかった父親だ。

そう思うと、夜、なかなか眠れなかった。

妻に言うと、妻は、そうかしら、とだけ言った。

第四章 十年の晩

今年の春で、店が息子の代になって、ちょうど十年になった。

息子は、店を閉めたあと、長椅子の前に小さな卓を出して、わたしと妻を呼んだ。

ビールを三つ置いて、十年、と言った。

わたしは、何と言えばいいのか分からず、ビールを飲んだ。

息子の顔は、この十年で、わたしが店を継いだころの顔に似てきた。

しばらくして、息子が言った。

親父、十年、一回も店に来なかったな。

わたしは、約束だったからな、と言った。

息子は、うなずいて、言った。

三年目の冬、正直、やめようと思った。

親父が店に出てきて、ほら見ろ、って言ったら、やめてたと思う。

でも、親父は来なかった。

家の窓に、明かりがついてるのは見えてた。

見てるのは分かってた。でも、来なかった。

だから、自分でやるしかなかった。自分でやれた。

わたしは、窓の明かりを消しておけばよかったのか、と一瞬思った。

息子は、首を振った。消えてたら、たぶん、心細かった。

第五章 刷っていないところ

息子は、ビールを置いて、続けた。

親父が口を出さなかったところが、全部、俺が考えられた場所だった。

長椅子も、予約制も、電動のも。

親父がいちいち言ってたら、一つも思いつかなかった。

親父は何も教えてくれなかったって、昔は思ってた。

いまは、あれが、いちばん大きなもんだったと思う。

わたしは、何も言えなかった。

わたしは、何もしなかったことを、空白だと思っていた。

渡さなかった四十年、教えなかった十年。

けれど、その空白は、息子にとっては、ものを考えるための広い場所だった。

わたしが何も置かなかったから、息子はそこに長椅子を置けた。

何もしなかったところが、息子の店の、いちばん明るいところになっていた。

父の代から残っている空気入れも、息子は、ちゃんと毎朝出している。

あれだけは、わたしが何も言わなくても、残った。

妻が、横で、少し笑った。

あなた、十年、何もしないのを、がんばってたものね、と言った。

わたしは、がんばってた、と言った。

エピローグ

次の日から、わたしは、ときどき、店の長椅子に座るようになった。

客としてだ。

息子が、親父、口は出すなよ、と笑った。

出さない、とわたしは言った。

今度は、守れる気がした。

長椅子には、近所の年寄りが三人座っていて、天気の話をしていた。

わたしも、天気の話をした。

小学生が一人、空気入れを借りに来た。

息子が、どうぞ、と言った。

父が言っていたのと、同じ言い方だった。

店の奥で、息子がブレーキを調整する音がした。

わたしのやり方とは、少し違う音だった。

わたしは、何も言わなかった。

それが、いまのわたしにできる、いちばんの仕事だと思う。

ソウルミッション358

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