母さんが言ってた
片側からしか照らしていなかった

朗読で聴く
第一章 冷たい父親
七十になった。
鉄工所で四十二年、溶接の仕事をして、五年前に辞めた。
妻の節子は、おととしの春に、六十八で死んだ。
息子が一人、四十三で、大阪で会社勤めをしている。
息子とは、あまり話さない。
電話も、正月の前に一度かかってくるくらいだ。
話さないようになったのは、たぶん、息子が中学に上がったころからだ。
妻の節子は、よく笑う人だった。
台所から、息子と妻の笑い声が聞こえると、わたしは居間で新聞を読んでいるふりをした。
入っていけばよかったのだが、入り方が分からなかった。
わたしは、息子にとって、冷たい父親だったと思う。
仕事は朝が早く、帰りは遅かった。
運動会にも、授業参観にも、ほとんど行かなかった。
息子が何か言っても、ろくに返事をしなかった。
高校を出て、大阪の大学に行くと言ったときも、そうか、としか言わなかった。
本当は、いろいろ言いたいことがあった。
体に気をつけろ。お金が足りなかったら言え。いつでも帰ってこい。
けれど、口から出たのは、そうか、だけだった。
息子は、それを、どうでもいいと思っている顔だと受け取ったと思う。
それから二十五年、息子は盆と正月に帰ってきて、妻とは台所で長く話し、わたしとは、元気か、元気だ、で終わった。
わたしは、それでいいと思っていた。
息子の目に映るわたしが冷たい父親なら、それは、わたしがそうしてきたからだ。
片側しか見せてこなかったのは、わたしのほうだ。
妻は、そういうわたしを、四十年、何も言わずに見ていた。
責めることも、取りなすことも、わたしの前ではしなかった。
第二章 見せなかった側
息子の知らないことが、いくつかある。
息子が小学三年のとき、自転車で転んで、おでこを五針縫った。
わたしは仕事を抜けられず、病院には妻が行った。
その晩、わたしは工場の裏で、一人で泣いた。
息子が中学のとき、いじめにあって、半年、学校を休みがちだった。
わたしは何も言わなかった。
けれど、毎朝、息子の自転車のタイヤに空気を入れて、チェーンに油を差していた。
いつ学校に行く気になってもいいように。
息子が大阪の大学に受かった日、わたしは、工場の同僚に缶コーヒーを配った。
理由は言わなかった。
息子が結婚するとき、式の前の晩に、妻に言われて、息子に手紙を書こうとした。
便箋を前に一時間座って、何も書けなかった。
妻は、何も書いていない便箋を、黙って引き出しにしまった。
そういうことを、わたしは、息子には一つも見せなかった。
見せ方が分からなかった。
溶接は、火花の側から見ると眩しいが、裏から見ると何も見えない。
わたしの裏側は、息子からは、何も見えなかったはずだ。
見えないほうが、いいと思っていた。
泣いた父親より、黙っている父親のほうが、息子には楽だろうと。
第三章 葬式のあと
妻の葬式が済んで、親戚が帰ったあと、息子と二人で家に残った。
妻のいない台所で、息子がお茶を入れた。
わたしたちは、しばらく黙って、湯のみを持っていた。
息子が、ぽつりと言った。
父さん、おでこの傷のとき、工場の裏で泣いたんだってね。
わたしは、湯のみを落としそうになった。
母さんが言ってた、と息子は言った。
誰にも言っていないはずだった。
工場の同僚の誰かが見ていて、妻に言ったのだろう。
息子は続けた。
中学のとき、毎朝、自転車に空気を入れてたのも、母さんが言ってた。
大学に受かった日に、工場で缶コーヒーを配ったのも。
全部、母さんが言ってた。
息子は、それから、少し笑って言った。
結婚式の前の晩の、何も書いてない便箋のことも知ってるよ。
母さんが、引き出しから出して見せてくれた。
あれがいちばん父さんらしいって、母さんは言ってた。
第四章 妻の側の光
妻は、息子と台所で話すたびに、わたしのことを話していたらしい。
お父さんは、ああ見えてね、と。
息子は、中学のころから、それを聞いていた。
聞いていたが、わたしに向かっては、何も言わなかった。
わたしも、何も言わなかった。
妻は、わたしには、息子がわたしのことをどう思っているか、一度も言わなかった。
言えば、わたしが照れて、また黙ると分かっていたのだと思う。
息子は言った。
父さんが冷たいとは、思ったことないよ。
話すのが下手なんだろうとは思ってたけど。
母さんが、ああ見えて、って毎回言うから、ああ見えてる側じゃないほうが本物なんだろうと思ってた。
わたしは、何も言えなかった。
わたしは、息子に片側しか見せてこなかった。
息子は、わたしの片側しか見ていないと思っていた。
けれど、わたしの見えない側には、妻がずっと光を当てていた。
息子の知らないはずのわたしの裏側は、妻の話を通して、全部、息子に届いていた。
わたしが見せなかったものを、妻が見せていた。
四十年、妻は、わたしの裏側を照らす、もう一つの窓だった。
わたしは、その窓があることを、知らなかった。
第五章 照らす側
わたしは、息子の目にわたしは片側しか映っていないと思って、あきらめていた。
見せ方が分からないから、しかたがない、と。
けれど、それは、わたしの側から見た話だった。
息子の側から見ると、父親には、はじめから二つの側があった。
正面の、無口な父親と、母さんが話してくれる、裏側の父親。
息子は、その二つを一人の人として見ていた。
わたしは、息子のことも、片側しか見ていなかったのかもしれない。
元気か、元気だ、で終わる息子の、その先にある側を、見ようとしたことがなかった。
見ようとしなくても、妻が見せてくれたからだ。
妻は、息子の裏側も、わたしに話してくれていた。
あの子、会社でつらいみたい。あの子、結婚を考えてる人がいるみたい。
わたしは、それを、そうか、と聞いていただけだった。
妻は、二人のどちらにも、もう一方の見えない側を照らしていた。
その妻が、いなくなった。
妻の仏壇の前で、わたしは、妻が四十年、台所で何を話していたのかを考えた。
わたしの知らない、わたしの話を。
わたしは、それを一度も聞いたことがない。聞いていたのは、息子だけだ。
これからは、わたしが、自分で照らすしかない。
エピローグ
息子が大阪に帰る朝、駅まで車で送った。
車の中で、わたしは、言うことを考えていた。
駅に着いて、息子がドアを開けたとき、やっと口から出た。
体に気をつけろ。お金が足りなかったら言え。
息子は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
母さんの言ってたとおりだ、と言った。
何がだ、と聞いた。
父さん、別れ際にだけ、しゃべるって。
わたしは、何も言い返せなかった。
息子は、改札の前で、一度だけ振り返って手を上げた。
わたしも、手を上げた。
それから、家に帰って、妻の写真の前で、今日は言ったぞ、と言った。
その晩、息子から、着いた、と短い電話があった。
わたしは、そうか、と言いかけて、やめた。
よかった、と言った。
電話の向こうで、息子が少し黙ってから、うん、と言った。
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