砂
晴れの日も、ふだんの粒

朗読で聴く
第一章 海を見た一週間
七十二になった。
アメリカの真ん中の、海からいちばん遠いあたりの町に住んでいる。
まわりは麦の畑で、地面はどこまでも平らだ。
四十四年、町の電気屋で配線の仕事をして、八年前に辞めた。
妻のキャロルは、おととしの冬に七十で死んだ。
息子が一人、四十六で、山のほうの町にいる。
冷蔵庫の扉に、一枚の写真が貼ってある。
海の写真だ。
結婚四十年の年に、二人で西の海まで車で行った。
三日かけて行って、海の近くの小さなモーテルに一週間泊まった。
二人とも、それまで海を見たことが無かった。
キャロルは、最初の朝、靴を脱いで砂の上を歩き、波が足にかかると、声を上げて笑った。
わたしは、あんなふうに笑うキャロルを、それまで見たことが無かったと思った。
夕方には、二人で砂浜に座って、日が海に沈むのを見た。
麦畑に沈む日しか、見たことが無かった。
四十八年の結婚のうちで、いちばんいい一週間だった。
ずっと、そう思ってきた。
ほかの年のことは、どの年がどの年か、もう区別がつかない。
あの一週間だけは、一日ずつ言える。
第二章 毎朝の弁当
四十四年、キャロルは毎朝、わたしの弁当を作った。
パンにハムとチーズを挟んだサンドイッチが二つ、りんごが一つ、魔法瓶にコーヒー。
四十四年、ほとんど同じだった。
台所の、流しの横の台で、わたしが起きる前に作ってあった。
茶色い紙袋に入れて、口を二回折って、その台に置いてあった。
わたしは、それを仕事のトラックの中で食べた。
どこかの家の前にトラックを停めて、エンジンを止めて、ラジオを聞きながら食べた。
おいしいと言ったことは、たぶん無い。
弁当は弁当で、毎日あるものだった。
一度だけ、弁当をその台に忘れて出たことがある。
昼前に、現場の家の前に、キャロルの車が止まった。
キャロルは、窓から茶色い紙袋を差し出して、忘れてたわよ、と言って、すぐに帰っていった。
町の反対側まで、三十分かけて持ってきたのだった。
わたしは、ありがとうとも言わずに受け取った。
そのとき一緒に働いていた若いのが、いい奥さんだな、と言った。
わたしは、弁当だよ、と言った。
海に行ったときも、キャロルは、モーテルの部屋で朝、サンドイッチを作った。
ハムとチーズを挟んだのが二つ、りんごが一つ、魔法瓶にコーヒー。
茶色い紙袋に入れて、口を二回折った。
わたしは笑って、海に来てまで、それか、と言った。
キャロルは、これしか作り方を知らないのよ、と言った。
わたしたちは、砂の上に座って、それを食べた。
波の音がして、風が強くて、パンに砂がついた。
コーヒーは、いつもの味だった。
第三章 もう一度行った
キャロルが死んで一年たった春、わたしは一人で、あの海に行った。
同じ道を三日かけて走り、同じモーテルに泊まった。
部屋も、頼んで同じ部屋にしてもらった。
モーテルの主人は、八年前のことは覚えていないようだった。
奥さんはご一緒じゃないんですか、と聞かれた。
死んだ、と言うと、主人は、それは、と言ったきり黙って、鍵を渡した。
部屋のカーテンも、ベッドの柄も、同じだった。
窓を開けると、あのときと同じように、波の音が聞こえた。
朝、同じ砂浜に行って、同じあたりに座った。
海は、同じだった。
波の音も、風の強さも、同じだった。
けれど、何も無かった。
あの一週間は、そこに無かった。
わたしは、海のほうを見て、半日座っていた。
あの一週間が明るかったのは、海のせいだと思っていた。
海のせいなら、海に来れば、少しは残っているはずだった。
何も残っていなかった。
昼になって、腹が減った。
町の店で、サンドイッチを買って、砂の上で食べた。
知らない味がした。
コーヒーも、紙のカップで、熱すぎた。
魔法瓶は、車の中に置いたままだった。
夕方、日が沈むのを見た。
きれいだった。けれど、それだけだった。
第四章 ひとつかみの砂
帰る前の日、わたしは砂を一つかみ、手に取った。
手のひらに広げると、どれも同じくらいの小さな粒だった。
日の当たった白く光っているところの砂も、砂丘の陰の暗いところの砂も、手に取れば同じ粒だった。
光っているところだけ、特別な砂でできているわけではなかった。
光って見えたのは、そこに日が当たっていたからで、砂のせいではなかった。
日が動けば、陰のところの砂も、同じように光る。
わたしは、あの一週間のことを考えた。
あの一週間、キャロルがしていたことは、ふだんと同じだった。
朝、サンドイッチを二つ作って、りんごを一つ入れて、魔法瓶にコーヒーを詰めた。
四十年、トラックの中で食べていたのと同じ弁当を、海まで持ってきていた。
あの一週間が明るかったのは、海のせいではなかった。
四十年分の毎朝を、そのまま海の前まで運んできたからだった。
キャロルが波の前で笑ったのも、たぶん、いつものキャロルだった。
台所で、ラジオに合わせて、ときどき笑っていたのを、わたしは知っていた。
わたしが、トラックの中で、それを見ていなかっただけだ。
あの一週間は、ふだんの朝と同じ粒でできていた。
粒のほうだけが、ここには無かった。
第五章 取り出せないもの
晴れた一週間だけを、四十年の中から取り出して、大事にしてきた。
けれど、取り出した一週間には、中身が無かった。
中身は、取り出さなかったほうにあった。
トラックの中の、ハムとチーズの二つのサンドイッチ。
ラジオを聞きながら飲んだ、魔法瓶のコーヒー。
四十四年で、一万回を超える。
一回ずつは、何も覚えていない。
けれど、あの海の一週間に、その一万回が全部入っていた。
晴れの日は、ふだんの日の粒の、いちばん明るいところだった。
明るいところだけを取り出そうとすると、粒は手からこぼれる。
手のひらの砂も、握ると、指のあいだからこぼれていった。
わたしは、魔法瓶に、あの砂を少し詰めて、車に積んだ。
三日かけて、家に帰った。
家に着いたのは夜で、台所の電気をつけると、流しの横の台が、いつものところにあった。
エピローグ
今は、毎朝、自分で弁当を作っている。
どこにも仕事に行かないのに、作っている。
パンにハムとチーズを挟んで、二つ。りんごを一つ。魔法瓶にコーヒー。
茶色い紙袋に入れて、口を二回折る。
キャロルと同じ作り方しか、知らない。
昼になると、家の前に停めたトラックの運転席で、ラジオを聞きながら食べる。
息子が電話で、父さん、何してるの、と聞いた。
弁当を食べてる、と言った。
息子は、しばらく黙って、それから、母さんのと同じのか、と聞いた。
同じのだ、と言った。
息子は、それならいい、と言った。
台所の窓のところに、砂を入れた瓶が一つある。
朝のうちは日が当たって、瓶の砂は白く光る。
昼を過ぎて陰になると、ただの砂に見える。
どちらも、同じ砂だ。
冷蔵庫の海の写真は、剥がしていない。
けれど、毎朝いちばん長く立っているのは、弁当を作る台所の、あの台の前だ。
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